Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

彩瀬まる『森があふれる』を読んで

彩瀬まる『森があふれる』を読みながら思い出したのは川端康成の小説『美しさと哀しみと』でした。

中年の作家が十代の少女に恋をして、妊娠させて堕胎させて見捨ててその人生を狂わせ、その体験を小説に書き、その浄書を妻にさせる。少女も妻も、作家に反抗してあたりまえなのに黙って服従する。復讐は思いがけない人物によって思いがけない形でなされるわけですが。

彩瀬の小説では、設定は川端と似ているのに展開が全然違う。作家埜渡徹也(のわたりてつや)が妻琉生(るい)との体験を小説に書き、さらに浮気までしたことに対して、琉生は怒り、反抗するのですが、それはことばでもなく暴力でもなく、森を茂らせることによってでした。琉生の体から発芽して、やがて部屋いっぱいに繁茂してゆくさまはシュールで夢幻的で、それでいてどこか悲しい。

作家である男はつねにことばで支配してきて、何か言おうとしても、結局君の言いたいことはこういうことでしょと先回りして、ちょっとちがうんだけれどうなずくしかなくて、そんなふうにことばでやりあっても太刀打ちできない。

埜渡と琉生のほかにも何組かの男女が描かれるけれど、男はいつもことばで優位に立ち、女の言い分を聞かずに一方的に話して女を支配する。レベッカ・ソルニット Rebecca Solnit に『説明する男』Men Explain Things to Me という著作がありますが、ことばは男性が女性をねじふせる武器として働く。たとえばテレビ番組でも男性の司会が九割以上しゃべって、横にいるアシスタントの女性が残りの一割で相槌をうって男性を盛り立てるというのはあまりにもありふれた風景です。

ギリシャソクラテス以来、あるいは古代中国の蘇秦張儀以来、男たちはことばで弁論を戦わせて勝ち負けを競ってきた。さわやかな弁舌と説得的な論理で相手を論破した方が勝ちだった。そして女たちはつねに、その戦いの蚊帳の外に置かれてきた。というより女は、ことばで勝ち負けを争うなんてばからしいと思っていた。

琉生はことばではなく、森をあふれさせることで仕返しした。ことばであらそってもむなしくなるだけだから、ことばの入ってこられない世界をつくってしまおう。韓国の作家ハン・ガンの作品『菜食主義者』で、周囲の人間の暴力にたえかねた女主人公が、肉食を断ち、寡黙になり、しだいに植物に近づいてゆく話も思い出しました。

整然と区画化された街路樹ではなく、あたりいちめんに植物を繁茂させようという、1990年代にアメリカで始まったアナーキーアヴァンギャルドな「アヴァン・ガーデニング」avant gardening の試みをも思い出させます。物語の後半で、森が家からあふれて隣の敷地に、さらに向こうの通りに、どんどんはびこるようすが、不気味なのに美しい。植物は、男性優位の秩序への異議申し立てになりうるのかもしれない。

最後には物語論になります。世の中にあふれている小説には性差別を容認する表現があふれていて、男が女を殴ったり、だめな男を女がやさしく許したりという物語に満ちている。それらを焚書にするのは表現の自由の侵害だとしても、どうしてそのような物語ばかりなのだろうか、と問うことは許される。それらがすくいとっている領域は世界のごくわずかにすぎないのではないか。もっと女性がのびのびしている物語があってもいいのではないか。

読みおわってから、それでは私自身はどうなのかしらと問うてみました。私はもともと口が立つ方でなくて、言い争うのも好きでなく、議論しても言い負かされてばかりだし、というよりはっきりした自分の意見がなくて、反論されると、ああそれもそうだね、とあっさり兜を脱いでしまうことも多い。そういう点で、この本に出てくるどの男性とも違う。もしかして私は男性ではないのかもしれないな、と思いながら読んでいました。