安部公房『他人の顔』を読む。ストーリーはともかく、顔と人格をめぐっていろいろと考えさせられた。
ギリシャ神話にある物語で、暗闇の中だけで愛し合っていたエロスとプシュケの関係が破綻するのは彼女が彼の顔を見たいと欲したからだった。
顔を見なくても(見ない方が?)愛し合えるのは、決して素顔を出さなかった源氏物語の女たちを考えてもわかる。
すべてが白日に照らされるいまの時代、裸の素顔をさらして生きるのには勇気が要る。裸なのが恥ずかしくて人は服を着るのに、なぜ顔だけは裸のままで平気なのだろう。
村上春樹がどこかで書いていたけれど、自分はぜったいにテレビに出たくない、もしどうしてもといわれたら熊か何かの被りものをかぶって出るとのことで、その気持ちはとても良くわかる。
ヴェールで顔を覆って生活するイスラムの女性がうらやましく思えることがある。あれを女性蔑視と批判する人もいるが、じつはなかなか快適なのではないかと想像する。顔を見られないで済む安心感が私にもほしい。
事故で顔を失って、仮面をかぶりたくなるこの物語の主人公は、あるいは多くの現代人の気持ちを代弁しているのではなかろうか。
和辻哲郎に「面とペルソナ」という短い文章があり、そこでかれは能面や仮面を論じながら、人間の顔の持つ重要な意味を指摘し、顔は人格の座だと書いた。しかし、これはあまりにも視覚中心の考え方ではなかろうか。人は視覚だけで生きるのではない。声やたたずまいにこそ人格が宿る。だからこそ小説の最後で、女は仮面の男の正体を直ちに見破ったのだ。
顔イコール人格でいいのだろうか。生まれつき目の見えない人などはどのように人格を認識するのだろうか。聴覚もまた、人格に深くかかわっている。胎児は目は見えなくても音は聞こえているし、臨終のとき最後までのこるのも聴覚らしい。親しい人の声を聞く夢を見たこともある。
あるいは、顔そのものも仮面といえないだろうか。死が周到に覆い隠される今と違って、昔は行路死人を見かけることは普通で、解剖学を知らなくても顔の下に髑髏があることはよく知られていた。顔さえも仮の人格なのかもしれない。
顔は玉葱のようなものだろうか。だれでも、表情を「作って」生きている。上司に向ける顔と友人に向けるそれと家族に向けるそれはおのずから異なる。どれが本当の顔なのか。そのように問うこと自体無意味ではないか。剥いても仮面、剥いても仮面、ほんとうの自己にたどりつくころには、ただの髑髏になりはてている。
大昔の絵画では顔は表現されない。ルネサンス以前の絵画などをみてもみんな同じような顔をしていて区別できない。歴史のどこかの時点で、顔を人格の表れとみなす考えが誕生したのだろう。ほんとうは人格は顔だけでは表せない、輪郭の定かでない茫洋とした何かのようなもののはずなのに、顔に特権的な地位を与えるこのような考え方は、ある種のフェティシズムとさえいえるかもしれない。
顔だけで判断するから、肌の色による差別が起こる。ルッキズムがはびこり、美人コンテストなどというものがなりたってしまい、美白だのアンチエイジングだのが流行る。
入社面接などで、たとえばカーテン越しに、声だけ聴いて判断すれば、結果はずいぶん変わってくるのではないか。相手の顔を見て話をするとき、顔ばかりに気をとられて、何かもっと大事なものをその人から受け取り損ねるということはないだろうか。
先日、偶然に、ある動画を見た。そこでは、夫に硫酸を浴びせられて顔の半分を破壊されたインドの女性が、まっすぐにこちらを見て、思いつめた表情で、ひたむきに、性暴力の被害を訴えていた。反射的に目をそむけたくなったのに、そのことばの強さに惹きつけられて、いつしか画面を見つめて聴き入っていた。
もしも顔だけで判断するならば、この人の人格はめちゃくちゃということになる。しかし、私が彼女から受け取ったのは、顔からだけでは読み取れない、この女性の真摯で高貴な精神だった。
人は見かけだけで判断してはいけないという古くからの言い回しをあざ笑うかのように、人は見かけが九割などという言説が人気を博してきている。ほんとうにそうなのかしら。いつまで顔にこだわるのだろう。
顔にこだわりつづける限り、前述のインドの女性の悲痛な叫びは、ついに我々に届かないままに終わるのではなかろうか。