Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

反ルッキズム文学としての『春琴抄』

外見の美醜にとらわれるルッキズムからほんとうに自由になるためには、人は盲目にならなければならないのだろうか。

文字通り盲目でなくても、たとえばオーケストラ団員のオーディションで、カーテンなどで仕切って演奏を審査する例を聞いたことがある。見えてしまうと、見たものにとらわれるから。

谷崎潤一郎の『春琴抄』では、顔に熱湯をかけられて大きなあざが残った春琴をもはや見ずにすむように、佐助は自らの手で視力を失う。それでも、視力の喪失ののちにはほのかな薄明りがあり、そこにぼんやりと浮かぶのは愛する人の面影、とすれば彼の自傷の後にあったのはある種の浄福で、目が見えなくなったからこそ一層逆説的に彼女の現前は明らかなものとなり、二人の盲目の男女の寄り添いつつ生きる様子はほとんど非地上的、形而上的な愛に近づく。見えなくなることで、一層よく見えるようになった。聴力を失ったベートーヴェンが、今まで聞こえなかった音を聞いたように。

...佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知り嗚呼これが本当にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだこれで漸うお師匠様と同じ世界に住むことができたと思ったもう衰えた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはっきり見分けられなかったが繃帯で包んだ顔の所在だけが、ぼうっと仄白く網膜に映じた彼にはそれが繃帯とは思えなかったつい二た月前までのお師匠様の円満微妙な色白の顔が鈍い明りの圏の中に来迎仏の如く浮かんだ