加賀乙彦『錨のない船』全三巻を読んだ。
真珠湾攻撃前夜、その英語力を買われて対米交渉に派遣された来栖三郎特使の、米国首脳とのぎりぎりの息詰まるやりとり、磊落なルーズヴェルトと無愛想なハル、緊張感なしに休日はドライブに出かける大使館員たち、なかなか進まない暗号解読、しかし全ての暗号は米国側にすでに解読されていたこと、最後の最後まで希望を捨てなくても、米国も日本も敵意を露わにして、開戦に向けて回り出した歯車は止めようがない。とりわけ妻が米国出身であった彼にとって戦争回避は悲願だったのに、どれだけ無力感に打ちひしがれたことだろう。
来栖三郎と妻アリスの息子良が中盤の主役となる。錨のない船のような外交官生活の中で、彼には錨を与えようと日本で養育され、航空技術将校として入隊するが、母親似の容貌ゆえに誤解され、疑われる。飛行機の設計と試験飛行に携われば、日米の技術と資源の差は自ずから明白だが、その差を精神力で埋め合わせようとし、挙げ句の果てに体当たりの特攻機の開発に走る上層部への疑問を口に出せば、精神力が足りないだのスパイだのと言われる。日米の双方の血を受け継ぎ、双方の国を愛する者にとって、どれほど辛い戦争だったか、想像を絶する。
息子良は「戦死」するが、その死に方が何とも痛ましく、さらに、死を美化するために捏造される「壮烈な」最期の物語に暗澹たる気持ちになる。無条件降伏の後来栖三郎にも戦犯の容疑がかかり、その容疑は晴れても公職追放となり、開戦前の対米交渉の精査と回想録の執筆を終えて、寂しく死んでゆく。息子と夫を亡くしたアリスが、五十年ぶりに故国アメリカの地を踏んで、あまりの変わりようにショックを受け、林立する摩天楼を前に、いつか必ずこの醜悪な建物は滅びるであろうと予言するところが印象的。何十年後かにその予言が的中するだけになおさら。
以下引用
「何という町なんだろうね。ビルをこんなに沢山つくってしまって、建て替えるときは大変だろうに。昔はこんなじゃなかったよ。もっと低い家々の、安心な町だったよ」...
「良、これは悪魔の町ですよ。こんなものを作って、神さまの罰があたらないはずはないよ」
今週のお題「読んでよかった・書いてよかった2024」