小学校から英語を教えるプログラムに反対する人の多くが挙げる理由のひとつに
「まず日本語をしっかり教えるべきだ。日本語の土台が固まらないうちに外国語を学んでも身につかない」
というのがあります。
本当にそうでしょうか。
イバン・イリイチはデイヴィッド・ケイリーとの対話『生きる意味』(藤原書店)の中で、人間がひとつの言語を話す生き物だ Homo monolinguis est という想定が、つい最近、国民国家の誕生と前後して生まれたものだと言っています。
たとえばスペイン語がいつ生まれたか。コロンブスの同時代人アントニオ・ネブリハ Elio Antonio de Nebrija という男がイザベル女王に、国を統治するには、スペイン語をラテン語やギリシャ語などと同等の地位に高めて、一つの言語で統治すべきだと進言し、こうして生まれたのが『カスティーリャ語文法』Gramática Castellana (1492) でした。
フランスでは数十年遅れてフランソワ1世がヴィレル・コトレの勅令 Ordonnance de Villers-Cotterêts を発して、今までラテン語で書いていた公文書をすべてフランス語で書くように定めます。
バベルの塔のように人々が勝手にさまざまなことばで話しては国が治まらないので、ひとつの国に一つの言語を、という流れでしょう。
それでも、アンリ・グレゴワールの報告によればフランス革命直後の時代でさえも、2800万の人口のうち600万はフランス語を知らず、600万は片言しか話せなかった。それほど方言が多様だったし、オクシタン語、ブルトン語、ワロン語、バスク語など他言語もいろいろあった。
実際、言葉と国家がぴったり一致することの方がめずらしいし、ラングではなくパロールの次元で考えれば、無数の言葉があると言っていい。たとえば我々も家族の中で話す言葉と、商売相手に話す言葉はおのずから違ってきます。子どもの頃、兵庫県の山奥の父の実家に帰省したとき、それまで標準語を話していた父が突然スイッチが切り替わったように播磨方言を話し始めたときは驚きましたが、だれでも話す相手によって言葉を使い分けるものです。イバン・イリイチ自身も父はクロアチア人、母はセファルディムのユダヤ人で、幼児から多言語の環境で育ったそうです。
たとえば森鷗外の文体を考えてみても「舞姫」の文語体の雅文、「そめちがへ」のひらがなばかりの短編全部が一つのセンテンスの江戸の戯作の文体、「雁」の言文一致体、「渋江抽斎」の漢文に近い文体など、一人の人とは思えない多様な声をもっている。
多様な声を持つことの方が自然で、それを単一の言語に統一するのは国家の強制的な意志でしょう。
ロラン・バルトは晩年のコレージュ・ド・フランスでの講義の中でこんなことを言っています。
仮に私が立法者であるとしたら―などという仮定は、語源的に言うと≪命令しない者≫(an-archiste) ということになる人間(anarchiste)にとって、いかにも見当違いであるが―私は、無理やりフランス語を統一して、ブルジョワ的または民衆的なものにするどころか、むしろ反対に、さまざまな機能をもち平等の地位を与えられた、いくつものフランス語を同時に学習するように奨励するだろう。ダンテは、どの言語を用いて『神曲』を書くべきか、ラテン語にするか、トスカナ語にするかを、実に真剣に検討して決めている。彼が平俗な言語(トスカナ語)の方を選んだのは、決して政治上または論争上の理由からではない。どちらの言語が自分の主題に適しているかを考えたうえでのことである。このように、二つの言語―たとえば、われわれの場合なら、古典主義時代のフランス語と現代のフランス語、書くフランス語と話すフランス語―が予備としてあり、かれはそのなかから欲望の真実に従って選ぶ自由が自分にある、と感じていたのである。この自由は、すべての社会が自己の市民に得させるべき贅沢であろう。つまり、さまざまな欲望が存在するのと同じ数だけの言語活動をもつこと。(中略)どのような言語であろうとも、一つの言語が他の言語を抑圧するようなことがあってはならない。(ロラン・バルト『文学の記号学』花輪光訳、みすず書房)
生涯を通じて権力に抗した anarchiste らしい言葉だと思います。一番ぐっときたのは「欲望の真実に従って選ぶ自由」というところ。言いたいことを好きな言葉で言えばいい。だれに遠慮することもない。
日本の単一民族単一言語幻想も抑圧にほかならず、いろんな民族がいていろんな言葉が輻輳している現実をよく見るべきでしょう。
はじめの話題、小学校から英語を学ぶことにもどれば、英語だけでなくもっともっといろんな外国語を教えればよい。とりわけ、中国語・韓国語・ポルトガル語・スペイン語など、移民の人が使う言葉や、アイヌ語や琉球語など少数民族の言葉を、選択制にして、好きな言語を選ばせたらよい。移民のこどもなどは日本語を学ぶだけでなく自らの母語をみんなに教えたらよい。学級担任ではなく専任の、できればネイティブの人を雇って、多くても20人を超えない少人数のクラスで、授業中に何度も発言の機会があるように学ばせて、学校はさまざまな言葉のとびかう場所になる。すてきじゃありませんか。
英語だけが唯一の外国語ではないのだと知るためにも。