萩耿介著『イモータル』という小説を読了。
もっとも胸を打たれたのは、ムガル帝国の皇子シコーが政争に敗れ、捕えられて市中を引き回されるとき、見守る市民(その多くはヒンズー系)から感謝の言葉と同情のまなざしを受ける場面。
イスラム国家の支配者でありながら、ヒンズーの文化に理解を示し、学者たちにウパニシャッドを翻訳させたシコーの、宗教や文化を超えた融和への努力は、決して無駄ではなかったのでしょう。
融和と寛容がこの小説の主題の一つと思いました。
イラン人がマンション入居を断られたり、隣に中国人が転居してくるのをいやがったり、在日は出ていけなどという言説がまかり通るいまのこの国にも
きのう不正義だったものが正義に、正義だったものが不正義に変わって殺しあう革命期のフランスにも
他者への不寛容が蔓延するなかで、その潮流に疑問をもつ隆にもデュペロンにもシコーにも共通するのは、
死者のことばへの傾聴。
時として解読不可能な古い時代の外国語や、ときおり現れる亡き兄の謎めいたことばへの傾聴。
わからないものや謎めいたものや異質のものを否定するのではなく、そこに秘められた智慧を探り、いまの自分の立場を相対化しようと試みる姿勢。
たとえそこに誤読や誤解があったとしても。
人が古典に親しむのは死者の声に耳を傾けるためなのかもしれない。死者と交信し死者に励まされることによってようやく人は生きてゆけるのかもしれない。
親は2人、祖父母は4人、曽祖父母は8人…計算すると10世代前は約1000人、25世代前は3300万人以上が私の先祖
1世代30年とすれば25世代は750年前、そんな昔に3000万人もこの列島に住んでいたはずもなく、
私の先祖は国境を超えて広い地域に根差し、私を一本の木に喩えるならばその木を支える無数の根が絡み合い、となりの木の根とまじりあうように、私の個は他の個と分かちがたく結ぼほれる。
英国の詩人ジョン・ダンが「島のように孤立した人間などいない」No man is an island. と歌ったのもこの意味かもしれません。
ショーペンハウアーの「個別化の原理の超越」という言葉を読んで私のイメージしたのはこのような木々の生い茂る豊饒な森です。
個別的な人間や個々の国家にとじこもるかぎり、他者の排除と不寛容はいつまでも終わらない。
個が個として存在するのではなく、信頼と憧れによって死者へ、そして他者へとひらかれるときにはじめて、他者の痛みを自らの痛みとし、対立と不寛容の無限のループから抜け出すことができるのではないか、そんなことを考えました。