たいていのオペラは歌詞があまりよく聴きとれない。音を長く引き延ばしたりころころところがしたりして、言葉をもてあそぶばかりで、言葉そのものが聴こえてこない。ワーグナー以降になると管弦楽が巨大化して大音量のために声そのものがかき消されてしまう。
ことし生誕160年を迎えるドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」ほど、言葉がはっきり聴きとれるオペラはあまりない。かなり大編成の管弦楽を使っているのだが、声をかき消すことがないように、ピアノやピアニシモを多用し、楽器も全部一度に鳴らさず、本当に大事な場面では沈黙する。たとえば、ペレアスがメリザンドに思いを打ち明けてメリザンドがそれに応答する場面
また、これに続く場面でペレアスが初めてメリザンドを抱擁するところでも、管弦楽は沈黙する。
ワーグナーのように音楽が言葉を従わせるのとは逆に、ピアニシモのティンパニの、弦のささやくようなトレモロの、神秘的な和音のひとつひとつが、言葉に従い、どんなひそやかな声も聴き逃さず、時には沈黙する。技巧を凝らした華やかなパッセージはほとんどなく、歌は限りなく語りに近づく。寡黙で清潔な音楽。
ドビュッシーはシャープ系の調、特にシャープ4つのホ長調や嬰ハ短調が好きだったようだ。たとえば有名なピアノ曲「月の光」も、中間部のホ長調への転調が印象的。
このオペラでもあちこちにシャープ系の調が使われる。一つだけ例を挙げれば、第1幕第3場、ペレアスが登場して間もなくのセリフ
「それと知らずに船を出して、それきり戻ることはないでしょう」という忘れがたいメロディーは嬰ハ短調で歌われる。このメロディは同じ作曲家の弦楽四重奏曲の緩徐楽章のなかのヴィオラのふし(やはり嬰ハ短調)によく似ている。
今回聴きながら思ったこと。男たち、ゴローもペレアスも、いつも「真実」を求めている。指環を泉に落としてしまって取り乱すメリザンドが、夫になんと伝えればいいかしらと問うのに対して「真実を、真実を」と答えるペレアス。物思いに沈むメリザンドに、どうしたんだ、真実を話せとうながすゴロー。彼は彼女の死の床でさえ、ペレアスとの仲について、それが禁じられた関係だったのか否か、真実を話せと問い詰めずにいられない。その詰問が彼女の死を早めたのでなければいいけれど。真実を知りたい欲求がエスカレートして、ゴローは垣根越しに二人を盗み見ることまでする。
真という漢字の旧字「眞」は、野垂れ死にした死者の象形なのだという。死んでしまった者→永遠に変らないもの→真の存在。
男たちが真相解明を求めても、しょせんはむなしく、行きつくところは死でしかない。
メリザンドの、無邪気と言おうか素直と言おうか、innocence という言葉が一番ふさわしく思えるのだが、指環をもてあそんだり、塔の上から髪を垂らしたりする、一見子供っぽいとさえ思える行為は、男たちの陰鬱な真実探求の対極にある。そんなに真実真実といってもむだなことよ、と言いたいかのように。
男たちの真実への探求は、城の地下の薄暗い洞窟に表象される。そこでは、飢饉に苦しむ庶民がかりそめの寝場所を求めてきている。
それに対してメリザンドのイノセンスは、塔の上の高みにある。
この二者の垂直的な対比が、相反する二つの極を象徴的に表している、と言えるだろうか。