Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

カミュ『異邦人』再読

カミュ『異邦人』再読。再読のたびに発見のある小説である。

窪田啓作の訳に誤りがあるのでまず指摘しておきたい。
物語の終わり近く、ムルソーと司祭の会話

そのとき、私のほうを振り向きながら、不意に彼は大声で、あふれるようにしゃべりたてた。「いいや、私はあなたが信じられない。あなただってもう一つの生活を望むことがあったに違いない」もちろんだ。しかし、金持ちになったり、早く泳いだり、形のよい口許になることを望むのは、やはり意味のないことだ、と私は答えた。それは同じ世界に属することなのだ。

「もう一つの生活」は原文では une autre vie 英語で言えば another life。「もう一つの生活」には違いないが、具体的に何のことかわからない。司祭がムルソーに宗教を語る場面ではそれは死後の生、来世以外になく、そう訳すべきだ。

この司祭の問いかけに対するムルソーの答えは日本語として理解不能。原文は

...mais cela n'avait pas plus d'importance que de souhaiter d'être riche, de nager très vite ou d'avoir une bouche mieux faite. C'était du même ordre.


主語の cela は来世を受けており、「来世は que~ 以上に重要なものではない」つまり

「来世なんて、金持ちになることや速く泳ぐことや形のいい口になることと同じくらいの価値しかない」

最後の文の ordre は世界というよりも「次元」とでも言おうか。
宗教的な救済と現世的な快楽は同じ次元のものなのだ、ということ。
地の文だが、これはいわゆる自由間接話法であり、ムルソーの司祭への言葉だ。

どうしてこんなでたらめな翻訳が版を重ねて生き延びているのかわからないが、ここを引用したのは、ムルソーの世界観がわかりやすい形であらわれているからである。

ムルソーの口癖「どちらでもいい」「何の意味もない」フランス語でいえば Cela m'est égal. 
すべてのものを平等に(égal)同じ価値のものとしてムルソーは見る。
来世も、金持ちになることも、速く泳ぐことも同等の価値のもの。宗教の超越的な価値も神の特権的な位置も認めない。
アルジェリアで働くのもパリで働くのも同じ価値だから、上司に転勤をすすめられても「どちらでもいい」。
母の死も、それ以外の人の死も、同じ価値のもの。母の埋葬に際してとくに悲しまない。
マリーから結婚をせがまれても、彼にとってはどちらでもいい。誰かを特権的に愛するということを彼はしない。

ムルソーは非情な人間だろうか。
マリーといい感じになっているのになんだかよそよそしくて、恋愛小説の展開を期待するとあっさり裏切られる。
私のことを愛してるのと聞かれてそんなことはどうでもいいとか愛してないかもしれないとかいうムルソーのことを、マリーはいやにならないのだろうか。
変わった人ね、といって、でも微笑んで、もう一度ムルソーにキスをしている。いやならそんなことはしないだろうな。
恋人に対してつれないのに、ムルソーにはどこか魅力がある。

この小説と並行して書かれた『手帖』Carnets はカミュの創作ノートと日記を兼ねたようなものだが、その中で彼は
「非情 impassibilité」という人がいるようだが言葉がよくない。むしろ「厚情 bienveillance」だろう、と書きつけている。

実際、ムルソーはなかなかいい奴である。
アパートの隣人と上手につきあっている。犬が迷子になったと嘆くサラマノ老人の話し相手になってやるし、
恋人とトラブルになっているレーモンの相談に乗って、手紙の代筆までしている。
上司とも同僚ともそこそこうまくやっているし、マリーにも親切。
だから、裁判で証人として出廷する上記の人々のなかで、だれひとりムルソーを悪く言う人はいない。
誰かを特権的に愛することをしない というのを裏返せば 誰もが特権を持っているということになる。
「誰でもが特権を持っているのだ。特権者しかいないのだ」というのは司祭との対話のなかのムルソーのことばである。
すべての人を、すべてのものを、平等に愛したのがムルソーではないか。

ともすると愛は偏愛にかたむく。
神を信じ、神を愛することは、神に叛逆するものへの敵意と表裏一体である。
特定の誰かを愛して結婚するならば、それ以外の人に排他的になりうる。
ムルソーはすべてをひとしなみに愛していた。

物語の最後のページ、死刑を待つ独房に夜のとばりがおりて、遠くに汽笛を聞きながら母をしみじみとしのぶ場面でムルソーは「世界の優しい無関心に心を開いた」。

優しい無関心 la tendre indifférence というのは撞着語法かに見える。無関心といえば冷淡でやさしくないはずなのに。
しかしムルソーにとっては無関心こそが優しさ。

indifférenceの語源にさかのぼれば「差異 différence」のないこと 区別や差別をしないこと それがほんとうの優しさ。
すべての価値を否定する虚無的な無関心ではなく、すべての価値を肯定する優しい無関心。
ニーチェ的な意味とは別の意味の「距離のパトス」のようなものを、ムルソーに感じる。
人に執着、愛着するのではなく、ある距離を置いて人を愛する。

カミュの戯曲の上演にも参加した女優の Catherine Sellers にあてたカミュの手紙の一節を読んだ。

I know I've done everything to detach you from me, and all my life, when someone has become attached to me, I've done everything to make them back off.

なんとかして君を私から遠ざけようとしてきた。だれかが私に執着しようとすると、どんなことをしてでも遠ざけてきた。

このような態度には東洋的な世界観を感じる。愛執を断ち切り犀の角のように歩めと言った仏陀や、善悪や正邪などすべての差異を否定した荘子に通ずるもの。

「不条理」の思想は仏教の「空」や荘子の「万物斉同」を想起させる。

『手帖』には『荘子』からの引用もある。逍遥游篇の冒頭、鵬という巨大な鳥が空高く羽ばたいてはるか下の世界を見下ろすところ。(訳書では朱子になっているが荘子の誤り。朱子は紀元前4世紀に生きていなかったしこんな文章を書かなかった。窪田とは別の訳者だがいいかげんさに呆れる)

距離をもって世界を見ればすべての差異が消失する。血縁も愛執も法律も、すべてが。

荘子といえば、妻が死んだとき、盆をたたいて歌っていたエピソードが有名だ(至楽篇)。訪ねた人が驚いてなぜ悲しまないのかと問うと、塵から生まれた人が塵に帰るのに何を悲しむことがあろうかと答えている。

母の死に際して、死顔も見ず、涙も流さなかったムルソーを思い出さずにはいられない。

『手帖』には『異邦人』についてこんな覚書もある。

自分を正当化することを欲しない男の物語。人が彼について抱く観念のほうが彼にとってむしろ良い。自分についての真実を知るたった一人の人間として彼は死ぬ。

実際、ムルソーは裁判で自分を正当化するような弁明をほとんどしない。「なぜ殺したのか」「なぜ母の死に泣かなかったのか」...矢継ぎ早の「なぜ」に彼は沈黙を守る。まるでピラトの前のイエスのように。

法律や宗教はムルソーの思想とは正反対の「差異」の思想である。
現世よりも来世に価値を置く。
ばらばらの事実に相互関係と意味を付与して有罪または無罪を宣告する。

そこではムルソーは自分を正当化する必要も意味も見いだせなかった。


「太陽のせいだ」の一言は、ほとんど自暴自棄のことばにみえる。
だが、真実の一端をついていることもたしかだ。
あまりにも太陽がまぶしく、汗が目に入って一時的に盲目になったとき、相手のアラブ人の顔が見えなくなった。顔が見えないから発砲できたともいえる。
アラブ人の顔を見ながらでは引き金を引くことはできなかっただろう。
ムルソー自身はアラブ人に何の憎悪も怨恨もない。レーモンのトラブルにまきこまれただけだし、いきり立つレーモンをなだめて、できるかぎり暴力を避けようとさえしている。
マソンが法廷で証言したように、ムルソーは「誠実な男」(honnête homme) 。喧嘩のときも数の均衡を保ち、武器の使用も対等にし、一対一で正々堂々と戦おうとしている。
にもかかわらず、最終的に彼自身がその均衡を破ってしまったのは皮肉としか言いようがない。

また一方で「太陽のせいだ」というのは皮肉のようにも聞こえる。
西洋の古い迷信では狂気は「月のせい」と考えられていて、lunatic の語源は lunaつまり月にほかならない。
太陽のせいと聞いて笑っているけれど、そういうあなたたちは精神錯乱を月のせいにしてきたではないか。
発砲の理由を「太陽のせい」というのと「母の死を嘆かなかったせい」というのと、どれほどの差異があるというのだろう。

「不条理」というのは堅苦しい日本語だが、対応するフランス語 absurde(形容詞)absurdité(名詞)は「ばかげた」「無意味な」というほどの、日常会話でも使われる語である。
『異邦人』にはたった一か所、この語が使われているところがある。
物語の終わり近く、司祭との会話のなかでムルソーが Du fond de mon avenir, pendant toute cette vie absurde que j'avais menée,...で始まる一文。

「いままでの私のばかげた人生の間中ずっと、未来のはるかかなたから、暗い風が私のほうに吹きつけてきて、私に与えられるすべてのものを等価値にしてしまうのだ」という大意である(ここにもキーワードの「等価値にする」égalisait が出てくる)。
訳者の窪田はこの cette vie absurde を「あの虚妄の生」と訳しているけれども、この人はカミュのことを全然わかっていなかったんだなと思う。虚妄ではない。リアルなのだ。リアルなのに無意味でばかげている。それが不条理なのだ。

不条理というと、たとえば地震や災害で命を奪われたとか、無辜の子どもが虐待されたとか、災難や不幸について言われることが多い。
それが不条理なのはもちろんだ。
だが、幸福や富貴は条理にかなっているのか。
そんな都合の良い話ではないだろう。
きょうがきて、あしたがくる。平凡で平和なこの日常こそが、なんの意味も根拠もない不条理。
しかし、だからといって、ムルソーは悲観的にも虚無的にもならない。
たとえこの世界が不条理であっても、世界は美しい。
アイスクリーム屋のラッパ。海の匂い。夜の星のまたたき。マリーのスカートの柄。
この小説の最後のページはふしぎな静謐と平安に満ちている。

不条理だからこそ、世界は愛すべきものなのだ。