Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

39年ぶりのドン・ジョヴァンニ

見に行くのは何十年ぶりかしら、フランス文学のゼミでモリエールドン・ファンを読んだとき、先生に誘われて映画のドン・ジョヴァンニを銀座のヤマハホールで見て以来、数えてみたら39年ぶりに、モーツァルトドン・ジョヴァンニ』を見てきました。

佐渡裕の指揮、デイヴィッド・ニース David Kneuss の演出、兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏、見に行ったのはドン・ジョヴァンニ役のジョシュア・ホプキンズ Joshua Hopkins を中心とする外国人メンバー中心のキャストの日でした。

私の個人的な好み、古楽器の切れ味のよい速めのテンポの演奏への好みからすると、佐渡氏の棒の紡ぎだす音楽は、好みとはいえませんが、よくまとまっていて、柔らかく温かいもので、管楽器のソロなどプレーヤーの皆さんもお上手。歯切れのよい(バロック風?)ティンパニのアクセントも良かった。

演出も、オーソドックスで無難なもので、驚きは期待できないものの、安心して見ていられます。

子どもだましのこけおどしとわかっていても、地獄落ちのシーンはゾクゾクするものですね。 第1幕の終り、色男の催すパーティーに仮面の三人組が招かれる場面では、舞台上に3つの小楽団が乗り、別々のリズムで奏でるカオスな音響が立体的に聴こえてきました(音だけ、あるいは二次元の映像だけではこの立体感はなかなか伝わってこない)。

第2幕、ドン・ジョヴァンニと思いこんでいたのがレポレッロとわかったとき、ドンナ・エルヴィーラが失望して歌うアリアでは、レポレッロの脱ぎ捨てたドン・ジョヴァンニのコートを羽織って歌う演出を興味深く感じました。 死ぬほど嫌いな大悪党なのになぜか惹かれてしまう彼女が、まるで彼のコートを通してその体臭を身につけたいと思っているかのように。

誰もがおじけづいて逃げ出す石像の騎士長を前に一歩も引かず、悔い改めよと諭されても悔い改めないドン・ジョヴァンニの強さは超人的で、ブルジョワの清く正しく美しい一夫一婦制への命がけの挑戦と言ったらかっこよすぎるかしら、Viva la libertà! 自由万歳!をつきつめればこうなるのかもしれなくて、フランス革命前夜の不穏な空気をそのまま体現しているように思われました。

(帰りのバスのなかでぐうぜん旧知のご婦人と乗り合わせて、あいかわらずチャーミングなかただったのですが、ドン・ジョヴァンニならばここでこのご婦人に優しく耳打ちしたのだろうか、などと妄想しておりました)

上演に先立って、ドン・ジョヴァンニ関連の文献をいくつか読みました。メーリケ『旅の日のモーツァルト』、キルケゴール(キアゲゴー)『ドン・ジョヴァンニ 音楽的エロスについて』、ペーター・ハントケドン・ファン(彼自身が語る)』、ジョージ・バーナード・ショー『人と超人』、ティルソ・デ・モリーナ『セビリャの色事師と石の招客』、モリエールドン・ジュアン』、E・T・A・ホフマン『ドン・ファン』、メリメ『ドン・ファン異聞』など。

その中で、このオペラを見た後で私に一番しっくりくるのはアルベール・カミュドン・ファン論で、『シーシュポスの神話』の中で一章を割いて論じています。

Mais que signifie la vie dans un tel univers? Rien d’autre pour le moment que l’indifférence à l’avenir et la passion d’épuiser tout ce qui est donné. La croyance au sens de la vie suppose toujours une échelle de valeurs, un choix, nos préférences. La croyance à l’absurde, selon nos définitions, enseigne le contraire. 

ところで、このような世界で生きるとは何を意味するか。さしあたり、未来への無関心、あたえられたすべてのものを汲みつくすことへの情熱、それ以外にない。生きる意味など信じ始めたら、もろもろの価値に段階をつけたり、選択したりえり好みしたりすることになる。ここで定義する不条理を信じるならば、ちょうどその逆になる。『シーシュポスの神話』(拙訳)

未来への無関心。たしかにドン・ジョヴァンニは明日どうなるか、死んだらどうなるかなど考えず、ただ今のこの時のすべてを楽しみつくそうとするから、えり好みをせず、女性の好みもただ一人に集中せず、年齢も地位も容貌も多様な、「スカートをはいているかぎり」すべての女性にその愛は向けられる。たとえ明日死ぬとわかっていても、石像の騎士長から悔い改めるように脅されても、彼は上機嫌に、今のこの時を楽しむことをやめようとしない。なぜならこの世界はあまりにも美しく、女たちは彼を魅惑することをやめないのだから。

ドン・ジョヴァンニは享楽的なキリギリスなのかもしれないけれど、寓話のキリギリスが、冬が来るとあわてて困りはててアリの家の門をたたくのとは対照的に、冬が来てもかまわない、死ぬまで遊びつくすのだ、そのような強い覚悟と生への意志がうかがえる気がします。