Dolcissima Mia Vita

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クセナキス生誕100年

ことしはヤニス・クセナキス Iannis Xenakis (1922~2001) の生誕100年。

主夫をお休みして、いずみシンフォニエッタ大阪のクセナキス・プログラムを聴きに行く。

生のクセナキスはやっぱり圧倒的で、打ちのめされた。

空襲警報が鳴り、爆撃機が急降下してきて砲弾の飛び交う中を兵士の群れが行進する、その合間から苦悶とすすり泣きの声が聞こえる、そういう世界の真っ只中を生きぬいてきた人の音楽なのだな、とあらためて思う。

クセナキスのことを知らない同居人に、YouTube から「メタスタシス」Metastasis を聴かせたところ、「この人にはふつうの人には聴こえない音が聴こえていたのだろうね」と言っていたけれど、ほんとうに、今まで聴いたこともない響きに満ちていた。

チェロ独奏の「ノモス・アルファ」Nomos Alpha は、まるで楽器を苛めるような激しい奏法、まがまがしいグリッサンドとピチカート、演奏の途中で調弦を変えて、聴いたことのないような低音のうなりが、強烈な印象だった。

「アロウラ」Aroura の強靭な音楽は、ヴィブラートを一切使わないことから来るのだろうか。一見ふつうの5声部の弦楽合奏のようなのに、12人の奏者が、Tutti のように見えるところでさえも、全員違うことをしていて、終演後に指揮者が12人をひとりずつ立たせて、拍手に応えさせていたのも納得できる。

初めてクセナキスを生で聴いたのは1983年の9月、秋風の吹き始めたパリのサル・プレイエルで、学生オーケストラの演奏する Metastasis を聴いたのだった。終演後、拍手とブーイングをこもごも浴びながら壇上に上がった作曲家の、大戦中、ギリシャでの市街戦で重傷を負ったという左頬の傷を、照明がくっきりと照らしだしていた。クセナキスの音楽が好きかと言われればためらってしまうが、あれから40年ずっと、なぜか惹きつけられずにいられない、気になる作曲家の一人である。

クセナキスは曲の名前がどれも素敵。高校生の頃、FM放送で彼の「アネモエサ」Anemoessa を聴いたが、何よりも題名にインパクトがある。ギリシャ語で「風に吹きさらされた」という意味らしい。息や風を意味する anima と関係があるのだろう。

ストラヴィンスキーバルトークも、存命中は毀誉褒貶にさらされても、生誕100年を迎えるころには、一般のコンサートの重要なレパートリーのひとつになっていたが、クセナキスの場合は、そういう日は訪れないような気がする。この日のコンサートも、客席は8割ほどの入りだったけれど、レパートリーとして定着するかどうか。

作曲家の娘で造形芸術家(plasticienne)のマキ・クセナキス Makhi Xenakis のインタビューをYouTubeで見た。

 


www.youtube.com

若い時にギリシャ共産主義の運動に身を投じて市街戦で重傷を負い、何度も逮捕・投獄されて、政治的な革命で世界を変えることに失敗した彼は、フランスに亡命後、こんどは音楽で世界を変えようとした、と彼女は語っている。

ル・コルビュジエに師事して建築を学び、音楽のグリッサンドの曲線を彷彿させるような曲線的な設計の建築を手掛ける。戦争でありとあらゆる建物が焼けて廃墟になった後に、こんどは自分が、誰にもまねできない建築物を作ってやろうという意気込みを感じる。

マキ・クセナキスは個人的な意見と断りつつ、父の音楽から「苦しみとすすりなき」la douleur et les sanglots が聴こえるという。私がパリではじめて「メタスタシス」を聴いたときに感じたものを言葉にしてもらったように思えた。

確率論などの数学的・建築学的な理論をもとにして、あくまでも知的に構成され、主情的なヴィブラートを禁欲的なまでに排除したきびしい音楽なのに、いやそれだからこそ、クセナキスの音楽は、聴く者に、ある悲しみの感情を呼び起こさずにはおかない。

音楽学者フランソワ・ドゥラランド François Delalande がクセナキスにインタビューした本が出ていて、原書は "Il faut être constamment un immigré"(つねに移民でなければならない)と題されている。日本語訳のタイトルは『クセナキスは語る』

 

 

いつも新しいまなざしを養わなくてはならない。すなわち、距離をもつことが必要なのです。つねに移民〈よそもの〉の意識を持っていなくてはならない。すべてにおいて。それでこそさらに新鮮で、鋭く、深いまなざしでものごとを見ることができるのです。(『クセナキスは語る』日本語訳215頁)

ヨーロッパの近代音楽の伝統すべての相続を拒否するかのような、斬新な彼の視点は、祖国を追われてフランスに亡命した移民だからこそ可能なのだろう。ソ連チェコスロバキア侵攻で祖国を追われてフランスで再出発したミラン・クンデラクセナキスの音楽に特別な共感を寄せている(クンデラ『邂逅』河出文庫)のもわかる気がする。

私自身は移民ではないが、パウロの「結婚している人はしていないかのように」(1コリント7章)をもじっていえば、「移民でない人は移民であるかのように」生きることはできるだろう。永遠に続く国などなく、いつ移民になってもおかしくないのだから。あらゆる判断基準から自由であろうとすること、思い出や記憶に左右されずに、つねに新鮮な目でものをみようとすること、まったく未知の言語を学んだ時に、一語も理解できない状態から、手探りで、まちがえながら、すこしずつ理解するようにして世界を理解しようと努めること、そのときはじめて、人は創造的になれるのかもしれない。

最後に、私の好きなクセナキスの写真。60年代のおわりか70年代のはじめか、武満徹といっしょにそばを食べている。クセナキスの人柄がよくあらわれている写真だと思う。