Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

角田光代『八日目の蝉』再読

9年前に初めて読んだときは、ひたすら希和子に感情移入して、その逃避行に一喜一憂していたが、このたび再読して、これは希和子と同じぐらい恵理菜の物語でもあったのだと気づく。
自分を誘拐して連れ出して育て、その結果家庭をめちゃくちゃにした希和子のことを憎む恵理菜が、皮肉なことに、希和子と同じ轍を踏んで、妻子ある男の子を身ごもってしまったとき、彼女が何を考え、どう行動したか、ということが、後半の主なテーマとなる。
希和子を妊娠させた秋山にしても、恵理菜を妊娠させた岸田しても、反応は判で押したように同じで、好きだけど、今は無理だから堕ろせという。
このように自分勝手に卑怯に振る舞い、妊娠させた女性の苦悩への想像力を一切欠いた男性は、今も昔も掃いて捨てるほどいるし、本当に掃いて捨てたい。いままでどれだけの女性が涙をのんで堕胎し、泣き寝入りを強いられてきただろう。

秋山一家の家庭を壊した希和子の責任は重いけれども、希和子自身もまた、それよりも前に、すでに秋山丈博の非情な振舞によって、心も体もずたずたにされていたのだ。

しかし、同じ運命をたどる恵理菜は、育ての親の希和子とは異なる決断、産む決断をする。空っぽのがらんどうになるなんてごめんだから。幼いころ希和子に見せてもらった緑を、海を、山を、お腹の子に見せてやる義務があると考えたから。
そんなふうに決断させてくれたのが希和子なのだとすれば、彼女への恵理菜の気持ちは、もはや憎しみばかりではなかったのではなかろうか。
自分勝手で卑怯な男たちを掃いて捨てて、女だけで暮せば、平和は訪れるのだろうか。そのように考えた人が作ったのが〈エンジェル・ホーム〉だったのだろうか。そこではすべての男は、幼児も含めて締め出されていた。
もちろん完璧なユートピアなどあるはずもなく、怪しげな宗教のようでもあり、経営は問題だらけで、世間の厳しい批判を浴びて滅びてゆく。
それでも、ヒントのようなものはある。母とか妻とか女性とかいう属性をカッコにくくって、誰もがフラットな立場で、みんなで子どもを育てること。遺伝子的な親が特権的に独占して子どもを育てるのではなく、複数の様々な人が育てること。

恵理菜の実母秋山恵津子にも気の毒なところはあるけれど、彼女の考え方に問題があったとすれば、自らの遺伝子上の母という立場に頼りすぎて、そこに安住して、それだけを武器にしてしまったことかもしれない。本当の母なのだから子どもはなついてくれるに違いないというような思い込みはなかっただろうか。母という属性に縛られずに、一人の人間として恵理菜に向かい合っていたら(言うほど簡単ではないかもしれないが)、違う結果になっていたのではなかろうか。

エンジェル・ホームで生まれ育ったために男性を知らないまま大人になり、男との付き合い方のわからない千草が、恵理菜に対して、私自身は赤ちゃん産めなくても、それでも私は、恵理菜の子の母その2になることができるよ、と言う場面がある。

産む決断をした恵理菜だけを描いていたら、ありがちな母性の賛美に終わっていたかもしれないが、彼女のとなりに産みたくても産めない千草を立たせたとき、母性ということばは少し違う意味を帯びる。産めなくても、産まなくても、母になることはできるのだ。

血の繋がった核家族の閉ざされた息苦しさから解放されて、血縁など関係なしに、ゆるくて大きな親密さを築くことができればいいのに、と思う。