Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

菅原百合絵『たましひの薄衣』を読む

人死にて言語(ラング)絶えたるのちの世も風に言の葉そよぎてをらむ

歌集の終り近くに置かれた、「禁色」と題された連作のなかの一首である。

源氏物語の柏木の禁断の恋をめぐる歌ではじまり、禁書目録、猥褻本の著者の追放、サヴォナローラ焚書、炎に包まれるアレクサンドリア図書館など、書物の禁止と滅亡をめぐる連作のなかに、この一首は置かれている。

禁じられていても、禁じられているからこそ、人は命をかけてでも、言葉を紡がずにはいられない。そして、そのような命がけの言葉は、人が死んでも、書物が焼かれても、木の葉のそよぎのように、人間の耳にはしかととらえられないかたちであれ、おそらく生き続けるだろう。文学研究にたずさわる著者は、そのように滅ぼされていった言葉、しかし、かすかな風のそよぎのなかにわずかに生きながらえるその痕跡とでもいえるような言の葉に、耳を澄ませることを、自らの使命と考えているのかもしれない。稀覯書を探し求めてほの暗い書庫に足を踏み入れる著者の自画像には、そのような思いが垣間見える。

言語を表すフランス語 langue が、言語と舌の両方を意味することは示唆的で、言語は舌という肉体性を離れては存在しえないのだけれども、人が死に、舌が滅びても、いわば肉体を離れた魂のように、言の葉は生き続けるのだろうか。

ちょうど、この歌集のタイトルの由来となった一首

たましひのまとふ薄衣ほの白し天を舞ふときはつかたなびく

における魂のように、肉体性を離れてふわふわとただようのだろうか。

同時に思い浮かべたのは、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の中の「世界は人間なしに始まったし、終るのも人間なしにであろう」Le monde a commencé sans l’homme et il s’achèvera sans lui という一節だった。

人間の文明も、言葉も、世界の悠久にくらべれば、はかない一瞬の出来事にすぎない。しかし、すべての人間が滅びた後の世界で、吹きわたる風の中に、言葉は生き続けるのではないだろうか。