Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

人はみなキマイラを

 人はなぜ子どもに夢を語らせたがるのだろう

 なぜおとなは「将来なにになりたいか」を子どもにたずねることを好むのだろうか。なにものかになってほしい、なにものでもないものにはなってほしくない、名づけうるなにものかになれ、そういう呪縛を子どもに課すのは罪作りなことではないだろうか。

訊かれても、将来のことなんてわかるはずもなく、戸惑うばかりで、ありきたりな サッカー選手とかケーキ屋さんとかでお茶を濁すうちに、未来図が次第に類型化して限定されて、退屈な大人になってしまうのは残念。

末娘の通う中学校では正規の授業のなかで「ドリームマップ」なるものを作らされる。自分の好きなことを見きわめて、してみたい仕事を具体的に思い描いてみんなの前で発表するらしい。もっとほかにすることはあるだろうに。

キャリア教育というのだろうか、よく知らないのだけれども、早いうちから自らの適性を見極めて正しい進路選択をするようにうながして、ひきこもりを防ごうという意図があからさまに見えるのだが、かえって逆効果なのがわからないのだろうか。

ふと思い出したのはボードレール散文詩集『パリの憂鬱』のなかの「人はみなキマイラを」Chacun sa chimère という詩。

荒涼たる沙漠を、うつむいて黙々と行進する人々。ひとりひとりの背中にはキマイラという怪物がとりついていて、その重さに背骨が折れそうなのに、その重荷に気づく様子もなくあるきつづける。そのあとにはこんな一節

  Chose curieuse à noter : aucun de ces voyageurs n'avait l'air irrité contre la bête féroce suspendue à son cou et collée à son dos ; on eût dit qu'il la considérait comme faisant partie de lui-même. Tous ces visages fatigués et sérieux ne témoignaient d'aucun désespoir ; sous la coupole spleenétique du ciel, les pieds plongés dans la poussière d'un sol aussi désolé que ce ciel, ils cheminaient avec la physionomie résignée de ceux qui sont condamnés à espérer toujours.

試みに訳してみると

ひとつ面白いことに気づいた。旅人のだれひとりとして、首と肩にとりついているこの獰猛な獣にいらだつ気配がないこと。まるで自分のからだの一部と思っているかのように。だれもかれも疲れて深刻な顔なのに絶望の色は見えない。憂鬱な空のもと、同じくらい憂鬱な土埃によごれながら、彼らは道を急ぐ。永遠に希望を持ちつづけるように宣告された人のあきらめの表情で。

 

パウロがコリント前書(13章)で信仰と希望と愛を三つの美徳を称揚して以来だろうか、希望をもつのが何かいいことのように言われはじめたのは。希望をもたなければならないという強迫的な義務感が内面化されて、その重みに打ちひしがれて視野がせまくなって、希望や夢をもつこと自体が目的となって、自分がどこに行こうとしているのかさえわからなくなっている。

希望も夢も情熱もいらない。平熱で、平静に、淡々と日々をたのしんで生きる、それでいいじゃないか。