Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

アリス・リヴァ『みつばちの平和』を読む

アリス・リヴァ『みつばちの平和』(正田靖子訳)読みました。
男は破壊するばかりで暴力しか知らず、後片付けはいつも女の役目になってしまうこの世界への異議が静かに語られます。
スペイン内戦の時代、迫りくる世界戦争を予感しつつ『みつばちの平和』を書く著者の念頭には、ペロポネソス戦争を止めるために女性たちがセックスストライキをするアリストパネスの『女の平和』があったのでしょう。
みつばちが、生殖のためだけに雄蜂を必要とし、用済みになった雄は直ちに死ぬことによって巣の平和を保つのと同じように、男に反抗して平和を取り戻そうと著者は呼びかけます。女が家事をボイコットして男たちがアイロンをかけ始めれば、世界も変わるでしょうか。
プロテスタントからみたマリア観も興味深く読みました。カトリックではマリアは崇敬の対象で、理想の女性像にもなるのに、プロテスタントではマリアは不在で、信者たちは母のない子のように見えて、カトリックがうらやましくなることがある、と著者は述べます。
しかし、実際の女性たちは、プロテスタントにおけるマリアのように、つまはじきにされ、端役に甘んじてきたのかもしれません。イエスの足に高価な香油を塗って洗い清める女性が、なんという無駄遣いをするのだとなじる男たちによって脇に追いやられてきたように。

訳者の正田靖子先生は大学の先輩で、一度フランス語を教えていただいたことがあります。学科の夏合宿で、星の王子さまの発音指導をしていただきました。Quelle drôle d'idée の drôle がうまく発音できなくて、何度やってもちょっと違うと言われて、もうフランス語大嫌い!と思ったことでした。お元気でご活躍のようで何よりです。とても読みやすい訳文と丁寧な解説でした。

 

「よろしゅうおあがり」という表現

関東よりも関西に住んだ年月のほうが長いとはいえ、生まれが関東なので、いまでも関西は異郷のような感じがしている。その関西に住んで初めて知ったのは「食べる」を意味する「呼ばれる」というふしぎな表現。

「せっかくやし、夕飯たべていき」「おおきに、ほな呼ばれますわ」みたいに使う。

まるで食べることと招待されることが同義かのように。招待してくれる人がいて初めて食べる行為が成り立つかのように。

もう一つ好きな関西ことばは、「ごちそうさま」への返答で、「よろしゅうおあがり」というのである。標準語ではごちそうさまと言われたら「お粗末さまでした」だろうか。これは自分の作った料理はたいそうなものではないという謙譲表現だ。しかし「よろしゅうおあがり」とはなんときれいな言葉だろう。食べてくれたことへの感謝、ともに食卓を囲むことへの祝福、そんな響きがする。

反ルッキズム文学としての『春琴抄』

外見の美醜にとらわれるルッキズムからほんとうに自由になるためには、人は盲目にならなければならないのだろうか。

文字通り盲目でなくても、たとえばオーケストラ団員のオーディションで、カーテンなどで仕切って演奏を審査する例を聞いたことがある。見えてしまうと、見たものにとらわれるから。

谷崎潤一郎の『春琴抄』では、顔に熱湯をかけられて大きなあざが残った春琴をもはや見ずにすむように、佐助は自らの手で視力を失う。それでも、視力の喪失ののちにはほのかな薄明りがあり、そこにぼんやりと浮かぶのは愛する人の面影、とすれば彼の自傷の後にあったのはある種の浄福で、目が見えなくなったからこそ一層逆説的に彼女の現前は明らかなものとなり、二人の盲目の男女の寄り添いつつ生きる様子はほとんど非地上的、形而上的な愛に近づく。見えなくなることで、一層よく見えるようになった。聴力を失ったベートーヴェンが、今まで聞こえなかった音を聞いたように。

...佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知り嗚呼これが本当にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだこれで漸うお師匠様と同じ世界に住むことができたと思ったもう衰えた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはっきり見分けられなかったが繃帯で包んだ顔の所在だけが、ぼうっと仄白く網膜に映じた彼にはそれが繃帯とは思えなかったつい二た月前までのお師匠様の円満微妙な色白の顔が鈍い明りの圏の中に来迎仏の如く浮かんだ

 

人間に葉緑素があるならば

人間が葉緑素をもつようになる未来を夢見てみる。はじめは体が緑色なのに驚いても、じきに慣れる。光と空気があれば生きていけるのならば、もはや飢餓は存在せず、1ミリも畑を耕す必要もない。労働から解放されて、緑の肌を寄せ合って遊び暮らす未来は、悪くないかもしれない。

世界は人間なしで始まったし、人間なしで終るだろうとレヴィ=ストロースは述べたが、人間以前から存在し人間以後も存在するものの一つは植物で、それは生物としての植物の優越を示しているだろう。チェルノブイリ(チョルノーブィリ)や福島の立入禁止地域における植物の繁茂もそれを裏書きする。

春になって薔薇が蔓を伸ばし、夕暮れに星が増えてゆくように花が次々と咲く庭を見ていると、植物もまた歌を歌っているのではないかと思うことがある。我々人間の感覚器官があまりにも鈍いので、それが聴こえないだけのこと。

 

父母から自由になること 韓国ドラマ『シスターズ』感想

親の支配から自らを解放する、勇気ある女性たちの群像劇だった。
三姉妹の父は最後まで登場せず、母の存在感も薄い。父母なしで、姉妹で力を合わせて生きていく。
イネとヒョリンの出国も、イネにとっては、親代わりに愛情を押しつけてくる姉たちからの、ヒョリンにとっては毒親二人からの脱出だった。
ヒョリンがイネに肖像画を描かせて、それを自分の作品として出して賞をとる序盤は、ヒョリンってなんていやなやつ、と思っていたけれど、それはどうやら親の言いなりになっていただけのようで、二人の間の、単なる友情以上の堅い信頼関係がすこしずつ明らかになるにつれて、この二人も姉妹のように思えてくる。
若草物語へのオマージュがあちこちに見られるが、あちらは四人姉妹だったのに対して、こちらは三姉妹。もうひとりいたはずなのだが、夭折している。
ファヨンが四人目の姉妹だったのではないかと誰かが考察していたのは、なるほどと思った。姉妹でなければ、あのような大金を譲る気になれるだろうか。彼女はインジュにとって、文字通り姉のように、教え励ましてくれる存在。一番上の兄や姉というものは、自分にも兄や姉がいればいいのに、と一度は夢想すると思う。血のつながった者ばかりが姉妹ではないのだから。第1話で、二人が靴を取り替えて、ファヨンが自分の上着をインジュに羽織らせる場面が象徴的で、二人の間に電流のように流れるシスターフッドが素敵だった。

オム・ジウォンの妖艶で堂々とした悪女ぶりがかっこよかった。上背があるので、はなやかなドレスがほんとうによく似合う。

何度も思い出す好きな場面は、インジュがシンガポールのホテルでドレスに着替え、ドイルからもらったアクセサリーを身につけるところ。いつもおどおどして自信なさげだった彼女が、晴れ晴れと自信にあふれてほほえみ、それを見守るドイルも、いつになく優しい表情だった。そこに恋愛の要素を見つけようとしてもいいけれど、しなくてもいい。恋愛うんぬんの次元を超えた、何か深くて温かい、敬意といえばいいか友情といえばいいか、そのようなものを、私はそこに見た。最終話での二人のラストシーンを見てもわかるように、恋愛的関係でない男女の温かい信頼関係を、作った人たちはここで描きたかったように思える。

原作の若草物語がみんな揃って団欒で終わるのと違って、この姉妹は最後にバラバラになるのだけれど、それで良かったのだろうな、と思う。ひとつ屋根の下で暮らすと、かえってお互いの欠点が気になって争いになる。離れていても、心はつながっている。

娘たちのお金を持ち逃げして家出する母親の無責任は誰もが非難したくなるが、結果的に彼女の不在が娘たちに自立の機会を与えたとも言えるし、海外でけっこう楽しそうにやっているようだし、あれで良かったのかもしれない。若草物語で父親の不在が娘たちの自由を保証したのと同じように。

三姉妹の母と対照的なのがヒョリンの母サンアで、一見教育熱心な良妻賢母を演じつつもすべては演技で、娘は自分の脚本を完成させるための役者の一人でしかなく、自分の脚本通りに動いくれないと承知しなくて、だからこそヒョリンの失踪で彼女はめずらしく取り乱す。

サンアは極端な例だとしても、こういう母親は少なくないように思う。子どもの有名校受験が子のためというよりは自分の虚栄心の満足のためというような母親が。娘を捨てて家出して自分自身の人生を楽しむ母親のほうがまだマシかもしれない。

ヒョリン失踪後のインジュとサンアの会話で、インジュは、娘にしたいようにさせてやるのも大事ではないか、と言う。彼女も、母親代わりに面倒を見てきたイネがいなくなって、心配でないはずはないのだが。原作の若草物語で、まだまだ子どもと思っていた末娘エイミーをヨーロッパに送り出すときの姉たちの心境もこんなふうだっただろうか。

親の支配なしに自立して力強く生きてゆく姉妹と対照的なのが、ベトナム戦争で勲功をたてた将軍を中心に結成された情蘭会で、そこでは父権的な忠誠が何よりも重んじられる。一見頼りなく隙だらけの姉妹に比べて、歴戦の勇者の鉄の結束は最強のはずなのに、いつしか自滅してしまう展開は皮肉だった。泥沼の戦争でたてた戦功も、持ち帰った希少な蘭も、死を招くものでしかない。
誰でも頼もしい父親を必要としている、とインギョンを情蘭会に引っ張り込もうとする先輩記者に、彼女は、父親なんかいらない、ときっぱりはねつける。生物学的な父親だけでなく、将軍やパク・ジェサンのような、あらゆる父権的なものへの拒否の姿勢が潔い。親の庇護なしにたくましく生きようとする女性たちの物語であることを印象づける場面だった。
「パク・ジェサンを殺す」というインギョンの決意に、エディプス・コンプレックスを読み取るのは難しくない。しかし、エディプスと違って彼女は父だけでなく母をも否定し、母の置き手紙と手作りキムチ(おいしいと言いながら一度は食べても)を捨てる。クリュタイムネストラを殺したエレクトラのように。

ベトナム戦争は、ここでは韓国軍兵士をも破滅に導く否定的なものとして描かれるが、描き方が中途半端だったため、結果的にベトナム当局に不快感を与え、かの国で配信停止になったのは残念でならない。歴代の大統領がベトナム戦争に従軍したこともあってか、韓国でこの戦争を否定的に描こうとしても、いまだに見えない壁のようなものがあるのかもしれない。


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佐渡裕のブルックナー6番

離れて住む息子が、仕事の都合で行けなくなったからと、音楽会の切符を。
ハイドンブルックナーというプログラムは大好物です。
親子で音楽の好みが似ているねと、うちの人たちにからかわれました。

ハイドン 交響曲第90番
ブルックナー 交響曲第6番
指揮は佐渡裕、演奏は兵庫芸術文化センター管弦楽団

ブルックナーの第6交響曲はふしぎな曲。ブルックナーをなにか一曲聴こうとすると、なぜかいつも後回しになるのに、ちゃんと聴いてみると、まぎれもないブルックナーの世界に浸りきってしまう、そんな曲です。

ハ短調ニ短調など、ずっとフラット系の調で書いてきた作曲家が、イ長調というシャープ系で初めてこの曲を書いたことで、新しい境地が開けたと言えるでしょうか。このあとの7番の交響曲も、まるで6番の続編あるいは夢のつづきかのように、シャープ系です。

余談ですが、同じようにハ短調などフラット系の調が好きだったベートーヴェンが、ピアノソナタ24番の「テレーゼ」で嬰ヘ長調を使ったことで、彼は新しい世界に足を踏み入れて、その後、シャープ系の調で歌う27番や28番や30番のソナタで、さらに未聞の響きを追求することになります。

第6交響曲は、ワーグナーの言葉を借りれば「舞踏の聖化」と言ってもいいくらい、リズムの躍動する音楽でもあります。出だしの弦楽器の、弾むような三連符のリズム、踊りだしたくなるようなスケルツォ楽章。フィナーレの金管のファンファーレも、符点のリズムが印象的。

イ長調という調は人を踊りたい気持ちにさせるのでしょうか。ベートーヴェンの7番やメンデルスゾーンの4番「イタリア」など、リズムの印象的なイ長調の曲を思いうかべます。

佐渡裕氏がプレトークで、ブルックナーという人は大食漢だった、そして女の人のことも大好きだった、と話していましたが、第6の弾むようなリズムの祭典に浸っていると、この人は人生を愛する人だったのだな、と思います。

ブルックナーというと、精神性や宗教性の観点で論じる人がよくいますが、そしてもちろんそういう側面も無視できないと思うけれど、同時に彼は、ワインと美食と女性と踊りが好きな人でもあった。そのような生の謳歌が、この曲から聴き取れるように思います。

マーラー指揮者のイメージだった佐渡裕氏ですが、ブルックナーの人生肯定的なこの曲の魅力を、あらためてはっきりとわからせてくれる演奏でした。特に印象的だったのは、フィナーレの金管の fortississimo のファンファーレでテンポを落とし、マルカートのテヌートで、ひとつひとつの音符を浮き彫りにしたところ。全曲のハイライトはここにあることを教えてくれました。

順序が逆になりましたが、ハイドンの90番も、楽しい演奏でした。フィナーレ楽章のハイドンの悪ふざけは、生演奏だからこそ楽しめるものでした。

兵庫芸術文化センター管弦楽団は初めて聴きましたが、若々しいオーケストラという印象。新しいメンバーが何人か入ったばかりとのことで、アンサンブルがこなれていないような感じもしましたが、若いエネルギーがブルックナーの第6に合っている気がしました。前から3番目の、コントラバスが目の前の席だったので、低音部の豊かさにも魅せられました。

 

「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」を見た

男性の出演者の中でただひとり男らしくない(褒めています)ウ・ヨンウの父親が好きだった。

自閉症の子どもをシングルファーザーとして育てる。なんてすばらしい父親。どんなに大変だっただろう。4歳まで一言も発しなかった子が初めて話し始めたときの喜びはどんなだっただろう。たとえそれが「傷害罪」という風変わりな単語であっても。

私自身もシングルではないけど主夫として子どもを育ててきたので、自分のこととして想像できるし共感できる。

一流大学の法学部卒なのにキンパ屋を開くというギャップが好き。

それでも勉強をあきらめたわけではなくて、本棚には法律書がまだ並んでいて、それは学業への未練というよりは、法を愛する一人の市民として、仕事の合間でもいいから少しずつ読みたかったのだろう。そして娘が、その法律書をいつの間にか暗記していたと知れば、積読も無駄ではなかったのだ。子どもは親の背中を見て育つというが、親の本棚の背表紙を見て育つ子もいるのかもしれない。

 

若い人たち恋愛模様は、はじめから解のわかっている方程式みたいなもので(ケンカしてもまた仲直りするんでしょ?)、冷めた目で見ていたけれど、彼らの親の世代の男女の愛憎から目が離せなかった。

女ざかりという言い方は差別的なのかしら、中年という言葉も失礼な気がして、とにかくその年齢の二人の、弁護士事務所の代表どうしが静かに散らす火花が見ものだった。メイキングの段階では二人の直接対決もあったようだが、放映分にはなくて、それがないのがかえってドキドキする。

部下を思いやる人情味のある反面、ライバルのテサンのことになると目の色が変わるハンバダの代表。政界入りへの野心を隠そうともせず、弁護士業はビジネスと割り切って、クールに弁護を展開するテサンの代表。どちらもかっこいい。

二人とも、他人を踏み台にしてのし上がろうとする冷酷な一面があって、すこし寒気がする。業界のトップに君臨するにはそういう冷酷さが必要なのかしら。それでも最終話で、ウ・ヨンウの必死の訴え(彼女が涙をためる場面はいくつもあったけれど、涙を流したのはたぶんあのときだけ)で心を入れ替えるテ・スミを見ると、この人にも人間の心があるのだなと思う。

韓国は男女差別がひどいと聞かされているけれど、これは男が子育てをして女性が社会に出るストーリーだった。女性が裁判長や検事を務める場面もいくつか。男女平等はこんなふうであってほしいという願望もはいっているのかな。

それでも、夫に殴られる妻や、リストラで夫より先に辞めさせられる妻や、強権的な父親の言いなりに結婚させられる娘など、女性が抑圧される場面も描くのを忘れていない。

ウ・ヨンウとテ・スミが、まだお互いの素性を知らないころ、風の吹き渡る榎の木の下で言葉を交わす場面は美しく、テ・スミの素性を知ったあとのウ・ヨンウの発するたった一言で、それまで自信にあふれていたテ・スミが見る見るうちに青ざめて取り乱す場面も、同じくらい忘れがたい。

ウ・ヨンウ役のパク・ウンビンの演技には知性を感じた。ちょっとした手足や視線の動きすべてがすみずみまで考え抜かれていて、それでも嫌味がない。猫の片思いについての会話のあと、車から出て横断歩道を駆けてゆくときに、一瞬振り向くヨンウの笑顔が印象的。

春の日差しの優しいチェ・スヨンもいいけれど、怒りに燃えて白目の多い目でにらみ据えて機関銃のように啖呵を切るチェ・スヨンも素敵だった。