Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

弦楽四重奏によるクロイツェル・ソナタ

高校生のころ初めてクロイツェル・ソナタを聴いたのはLPレコードで、たしかアルチュール・グリュミオーの演奏でした。

1楽章、2楽章と一所懸命に聴いて、特に2楽章の内容が濃くて、ああすてきな曲だなあと、すっかりおなかいっぱいになっていました。

ところがある日、ふとB面に針を下すと、ピアノのイ長調の主和音の炸裂とともに勢いよく走りだすヴァイオリンが聴こえてくるではありませんか。

あ、2楽章で終わりじゃなかったんだ、フィナーレがあったんだ、と初めて知った。

そのクロイツェル・ソナタ弦楽四重奏用に編曲したものを、このごろはよく聴いています。

Re:Imagined

Re:Imagined

  • Zuill Bailey & Ying Quartet
  • クラシック
  • ¥1500

music.apple.com

演奏しているのはアメリカの Ying Quartet

4人中3人が Ying のファミリーネームでご兄弟でしょうか。ファーストネームはみなさんアメリカ風です。

もとの曲よりこっちのほうがずっといい。

もとの曲はどうしてもヴァイオリンとピアノの対決みたいになって、音量の大きいピアノがともすればうるさくて、ヴァイオリンが必死に応戦する、という感じの演奏が多いように思います。

この編曲版はまるではじめから弦楽四重奏のために書かれたような自然なテクスチャーで、全体がしっとりとした一体感につつまれています。

チェロのひとがとてもうまくて、ピアノの左手パートのパッセージがチェロで鳴るととてもスリリングに聞こえます。

ベートーヴェンがもし生きていてこれを聴いたらきっと大いに満足するのではないかなあ。

何度聴いても聴き入ってしまうのは第2楽章。変奏曲が得意だったベートーヴェンの書いた中でもとりわけ規模が大きく内容も充実している。なによりも主題そのものが魅力的です。

カップリングは独奏チェロを加えた弦楽五重奏でのシューマンのチェロ協奏曲。こちらもすばらしい。

ベートーヴェンを聴くと、人はまじめにまっすぐに生きていてもいいのだと改めて思います。斜に構えたり、ふざけたり、冷笑したくなることもこの世の中にたくさんあるけれど、それでもなお、大真面目に生きることはよいことなのだと。

おわりに、私が Ying Quartet を知るきっかけになった YouTube の動画をあげておきますね。さきほどのアルバムより何年か前の演奏で、第一ヴァイオリンは違う人です。こちらも全身全霊をこめた熱っぽい演奏、これも私の大好きな曲。

youtu.be

 

 

人はみなキマイラを

 人はなぜ子どもに夢を語らせたがるのだろう

 なぜおとなは「将来なにになりたいか」を子どもにたずねることを好むのだろうか。なにものかになってほしい、なにものでもないものにはなってほしくない、名づけうるなにものかになれ、そういう呪縛を子どもに課すのは罪作りなことではないだろうか。

訊かれても、将来のことなんてわかるはずもなく、戸惑うばかりで、ありきたりな サッカー選手とかケーキ屋さんとかでお茶を濁すうちに、未来図が次第に類型化して限定されて、退屈な大人になってしまうのは残念。

末娘の通う中学校では正規の授業のなかで「ドリームマップ」なるものを作らされる。自分の好きなことを見きわめて、してみたい仕事を具体的に思い描いてみんなの前で発表するらしい。もっとほかにすることはあるだろうに。

キャリア教育というのだろうか、よく知らないのだけれども、早いうちから自らの適性を見極めて正しい進路選択をするようにうながして、ひきこもりを防ごうという意図があからさまに見えるのだが、かえって逆効果なのがわからないのだろうか。

ふと思い出したのはボードレール散文詩集『パリの憂鬱』のなかの「人はみなキマイラを」Chacun sa chimère という詩。

荒涼たる沙漠を、うつむいて黙々と行進する人々。ひとりひとりの背中にはキマイラという怪物がとりついていて、その重さに背骨が折れそうなのに、その重荷に気づく様子もなくあるきつづける。そのあとにはこんな一節

  Chose curieuse à noter : aucun de ces voyageurs n'avait l'air irrité contre la bête féroce suspendue à son cou et collée à son dos ; on eût dit qu'il la considérait comme faisant partie de lui-même. Tous ces visages fatigués et sérieux ne témoignaient d'aucun désespoir ; sous la coupole spleenétique du ciel, les pieds plongés dans la poussière d'un sol aussi désolé que ce ciel, ils cheminaient avec la physionomie résignée de ceux qui sont condamnés à espérer toujours.

試みに訳してみると

ひとつ面白いことに気づいた。旅人のだれひとりとして、首と肩にとりついているこの獰猛な獣にいらだつ気配がないこと。まるで自分のからだの一部と思っているかのように。だれもかれも疲れて深刻な顔なのに絶望の色は見えない。憂鬱な空のもと、同じくらい憂鬱な土埃によごれながら、彼らは道を急ぐ。永遠に希望を持ちつづけるように宣告された人のあきらめの表情で。

 

パウロがコリント前書(13章)で信仰と希望と愛を三つの美徳を称揚して以来だろうか、希望をもつのが何かいいことのように言われはじめたのは。希望をもたなければならないという強迫的な義務感が内面化されて、その重みに打ちひしがれて視野がせまくなって、希望や夢をもつこと自体が目的となって、自分がどこに行こうとしているのかさえわからなくなっている。

希望も夢も情熱もいらない。平熱で、平静に、淡々と日々をたのしんで生きる、それでいいじゃないか。

愛染坂

「愛染坂」十二首  夏の季節のために

 

鼻緒よりペディキュアの爪ひからせて祭り太鼓にいそぐをとめご

姿見にすがたうつしてなつゆかたくるりまはれば花咲くごとく

子のためにアイロンあつる夏ゆかたせみの声降るまつりのあさに

をさなごのたべのこしたるわたあめのあはくはかなく祭りの太鼓

げたならしなつまつりよりかへりきぬゆかたの子らは金魚をさげて

こぞのゆかた膝丈となり姉のゆかた借りてぞいにしなつのまつりに

愛染坂のぼりつめればせみしぐれゆかたゆきかふなつまつりかな

夏 ひぐれ くちなしのはな 遠花火 わがなつかしき形而下のもの

終演の拍手のごとくせみしぐれなつのさかりをたたへてやまず

なによりの甘露なりけり夏の日の井戸のふかきにひやせる西瓜

西のかたはるか花火かかみなりかひくくとどろく夏のゆふぐれ

子どもらの背たけことなる水筒に麦茶みたしむせみのなくあさ

 

ギュスターヴ・モローの展覧会

パリで一番好きな場所はときかれたらギュスターヴ・モロー美術館と即答するほどに偏愛する画家 ギュスターヴ・モローの展覧会が大阪で開幕したので行ってきました
母ポーリーヌや恋人アレクサンドリーヌをおだやかなやさしい筆致で描いた肖像画は初めて見ました
その穏やかさと ファム・ファタルを描いた絵の不穏さのギャップが面白い
 
ファム・ファタルの中では特にサロメにスポットが当てられ 試行錯誤のあとのうかがえるデッサンの数々などを見ると
サロメはこの画家の生涯にわたるテーマだったのだなとわかります
有名な「出現」L’apparition の絵 やはり実物のインパクトはすごかった
背景の柱などの細かい飾り模様は晩年になって書き加えたとのこと
逆にいえばそれ以前の背景はもっとシンプルであまり描きこまれていず 中央のサロメヨハネの首だけが入念に描かれていたということ
モローの絵ではよくあることだけれど 全部を描ききらない 細部はわざと未完成のままにする そのためにかえって主人公がきわだつ
「出現」のサロメは十代という設定だからだろうか 少年のように中性的なからだつき
モローの描くほかの女性たちも同じように性の匂いの稀薄なものが多く
バーン=ジョーンズの描く女性にも少し感じが似ている
女性性を失って asexual になることでより天上的な存在に近づくかのように
そしていくつかある素描のなかにはほとんど東洋的といってもいいようなポーズと衣裳のものもあり
これなどはまるで観音様か伎芸天みたい
19世紀後半のフランスにおけるジャポニスムの流行にモローもまた敏感だったのでしょうか
 

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モロー「サロメ
サロメのほかにもメッサリーナ サッフォー トロイのヘレン エウロパ デリラ メデイアなど充実の展示で時を忘れました
印象に残ったのは「エウロパの掠奪」壁いっぱいの大作でした
 

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モロー「エウロパの掠奪」

 

掠奪されて動顚しているはずなのになんと余裕の表情

むしろ牛に変身したゼウスを見下しているような傲然たる視線

ほかにもオンファレとヘラクレス セイレーンとオルフェウスなど

女性が上位に立って男性を慰撫する絵があって

モローの女性観が垣間見える気がします

 

美術館を出て16階の高みから見下ろす大阪の街は醜悪なコンクリートの林立
反時代的なモローの世界とは正反対の現実にしばし目のくらむ思いでした

日本のレジスタンス俳句

フランス出身で日本語で俳句を作るマブソン青眼 (Seegan Mabesoone) が1929年から1945年までのレジスタンス俳句を撰び、フランス語訳をつけ、日仏両方で序文を書いた本『日本レジスタンス俳句撰』(PIPPA Editions, 2017)を読む。

収録されている俳人は知らない人の方が多く、知っていたのは秋元不死男、西東三鬼、渡辺白泉ぐらい。私の無知ゆえかもしれないが、普通のアンソロジーでは見かけない人ばかり。そのことが、いかにこれらの俳人が見捨てられた存在だったかを示している。

レジスタンス俳句といういいかたは初めて聞いたが、いわゆる「新興俳句」のことで、高浜虚子率いるホトトギスの花鳥諷詠への異議申し立てとしての無季・自由律・体制批判を特徴とする。

戦時下の言論統制と重なり、序文によれば9度にわたる検挙があり、懲役になった俳人も少なくない。

有名なのは「京大俳句」事件だが、京大以外の大学にも、そして日本全国に、検挙の網が張られて、組織的な弾圧だったことをうかがわせる。

藤木清子の句

戦死せり三十二枚の歯をそろへ (1939)

を引用してマブソンはこのように書く

「このような無季の俳句こそ、死を表現し切っているのではないか」

同じ個所で、フランス語版の序文はもっと突っ込んだ言い方をしている

L’absence de mot de saison ー convention si habituelle dans le haïku japonais, n’est-elle pas parfaitement recevable dans cette situation extrême : le verset devient l’image même du temps figé, du vide, de la mort, de la guerre qui s’annonce?

試しに訳してみると

「季語の不在ー季語は日本の俳句ではおなじみの伝統だったがーその不在こそ、この極限状況のなかで完全に容認できるものではなかったか。かくして俳句は硬直した索漠たる死の時代の、せまりくる戦争のイマージュとなるのである」

 

焼夷弾で焦土となったところにもはや花は咲かないし鳥も歌わない。放射能にまみれた土の上でどうしてのんびりと歌など歌えようか。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮であるとテオドール・アドルノが書いたように、破局的な破壊のあとにはもはや沈黙しかないのではないか。それでも詩を書くとすれば、詩の破壊というかたちでしか書けないのではないか。

考えてみれば無季俳句そのものは体制批判でもなんでもなく、ただ季語のない俳句というだけなのに、それが検閲の対象になったのは、伝統的な約束事からの逸脱そのものが、不穏で不逞なものとみなされたのだろう。

マブソンは序文のなかで、同時代のフランスのレジスタンス運動にも言及し、エリュアールやサン・テグジュベリが亡命先で戦争批判の文学を書き続けたこと、それがレジスタンス運動にかかわる人々に大きな勇気を与えたこと、これに対して日本のレジスタンス俳句はつかの間の閃光のように消えて、検挙後は鳴りを潜めてしまったことを書いている。

俳句という形式そのものが全部を言い切らない文学である以上、体制批判も徹底的になりえなかったのかもしれない。

印象に残った一句をフランス語訳とともに

 

英霊をかざりぺたんと座る寡婦(細谷源二,1939)

Elle accroche le cadre ≪Mort pour la patrie≫,

Puis tombe accroupie.

La veuve. 

 

「英霊」は Mort pour la patrie, つまり「祖国のための死者」と意訳している。

死のおぞましさをおおいかくす英霊という美辞麗句にわれわれはころりとだまされてしまう。玉砕もそう。死が美しいものであるかのように。「祖国のための死者」はそのような含意がない中立的な表現。

「ぺたんと」というオノマトペ寡婦の孤独感をあますところなく描いているが、フランス語にはうつしにくい。accroupie (うずくまる)は近いけれども重ならない。

 

そのほかにこんな句も

赤の寡婦黄の寡婦青の寡婦寡婦寡婦(渡辺白泉)

塹壕の三尺の深さ掘りて死し(杉村聖林子)

出でて耕す囚人に鳥渡りけり(嶋田青峰)

砲音に鳥獣魚介冷え曇る(西東三鬼)

戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ(仁智栄坊)

秋は戦線の空にもあるか(中村三山)

血も草も夕日に沈み兵黙す(三谷昭)

どれにも日本が正しくて夕刊がばたばたたたまれゆく(栗林一石路)

墓標たち戦場つかのまに移る(石橋辰之助

征く人の母は埋れぬ日の丸に(井上白文地)

徐々に徐々に月下の俘虜として進む(平畑静塔)

煙突の林立静かに煙をあげて戦争の起りそうな朝です(橋本夢道)

昼寝ざめ戦争厳と聳えたり(藤木清子)

憲兵の怒気らんらんと廊は夏(新木瑞夫)

降る雪に胸飾られて捕へらる(秋元不死男)

ブラームスのコラール前奏曲

AppleMusicでピエール・モントゥーの古い録音を聴いていたら、ブラームスの11のコラール前奏曲(作品122)の管弦楽編曲版があった。

原曲はオルガン独奏用なのを管弦楽用に色彩的なオーケストレーションをしている。シェーンベルクのバッハの編曲とちょっと似た感じ。

前に金管合奏用の編曲版も聴いたことがあるが、あらためていい曲ばかりそろっているなあと思う。ブラームス最晩年の、ほとんど絶筆と言っていい作品で、ひそかに恋しつづけていたクララ・シューマンの死後の悲しみのなかで、自らの死をも予感しつつ作曲された、とものの本には解説してあるが、音楽そのものは感傷のかけらもない、対位法の織りなす綾の美しい作品で、ちょっと聴くとバッハかとまちがうほどの、音楽的純度の高い曲です。

若いころからバッハをふかく学び、左手ピアノのためにシャコンヌを編曲したり、チェロソナタでは「フーガの技法」の主題を借りて自分なりのフーガを書いたりしたブラームスの、バッハ研究の生涯最後の総決算がこのコラール前奏曲だった。

よくバッハ モーツァルト ベートーヴェンと並べて語られるが、プロテスタントのバッハに対してカトリックモーツァルトベートーヴェンは、もちろん音楽的には多くのものを負っているにしても、宗教的にはどうだろう?

バッハのプロテスタントのコラールの精神をほんとうに血肉化して継承したのはメンデルスゾーンブラームスだったのかもしれない。

モントゥーの演奏のリンクを貼っておきますね

Pierre Monteux With the Boston Symphony Orchestra (1958, 1959)

Pierre Monteux With the Boston Symphony Orchestra (1958, 1959)

  • ピエール・モントゥー, ボストン交響楽団, レオニード・コーガン, Leon Fleisher, Margaret Harshaw, Berl Senofsky, Joseph de Pasquale, Samuel Mayes, Nicole Henriot, アイザック・スターン & ルドルフ・セルキン
  • クラシック
  • ¥17000

https://music.apple.com/jp/album/pierre-monteux-boston-symphony-orchestra-1958-1959/467774194

金管合奏の編曲はこちら。金管楽器というものの人肌のあたたかみのつたわる素晴らしい演奏です。

Brahms On Brass

Brahms On Brass

  • カナディアン・ブラス
  • クラシック
  • ¥1500

music.apple.com

江ノ電の駅

連作「江ノ電の駅」十二首

海を主題に

 

由比ヶ浜に夕さりくれば波のおとたかくきこえて潮みちくらし

肺腑まで海のにほひにそまりけり夏のひかりの江ノ電の駅

さねさし相模のうみの大波にさらはれしわがさんだるいづこ

材木座海岸の夏はてにけり空まふ鳶の声のきれぎれ

干るまなく恋ひやわたらむよるなみにしとどぬれつつあふよしをなみ

いにしへの遠流のみかどみましけむ波間とびかふとびうをの群れ

絶海の小島の磯のみるめなくさがしあぐねつ恋忘れ貝

紺青のいろふかみゆく沖つかた水平線のゆるやかなる弧

春あさき加太のなみまにうかぶ雛いづちゆくらむ波のまにまに

われもまた島とならむや善悪の彼岸によする波のまにまに

潮みちて孤島となりし磯辺より裳裾ぬらして子らかへりきぬ

白き帆をかかげて君のなみまよりかへりきたるを爪立ちてまつ