※この文章にはネタバレがふくまれます。読みたくない人は読まないでください。
カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』6年ぶりの再読です。前回同様今回も、さいごまで物語にはいりこめないままでした。
このようなSF的な設定がどうも苦手で、クローン人間からの臓器提供という設定が突飛すぎてついてゆけない。
クローンの臓器など、そもそも移植して大丈夫なのか。
ありえない設定でもリアリティがあればひきこまれますが、それもなく。
ノーベル賞作家の映画化もされた名高い小説ですが個人的にはそれほどの作品には思えません。
読みながら考えたのは家族のことです。
児童虐待にしてもひきこもりにしても、家族が人間をかえって不幸にするのであれば、家族など解体してしまえとさえ思うことがあります。
ヘールシャムの子どもたちには生まれた時から家族がなく、全寮制の学校に収容されて管理されている。
先生はそれぞれに子どもを思いやり、あたたかくときにはきびしく接し、子どもの成長のために尽くしているように見えるけれど、やはり全面的に甘えられる存在ではない。
血縁のあるなしにかかわらず、少なくとも幼いころの何年かを、無条件にいつくしんでくれるひとのもとでみちたりて暮らすことは生きる上で絶対的に必要なのではないか。
ペットの犬猫の場合も56日ルール(動物愛護法)というのがあるそうですね。生後すくなくとも56日は売買はできず、親とともにすごさせる。そうしないとそのあと情緒的に不安定になり、ほえ癖・かみ癖などがあらわれる。
ところがヘールシャムの子どもたちは、家族を持たないにもかかわらず、ごくふつうの学園生活におけるのと同じように、愛し合ったり憎みあったりいじめたりなかなおりしたりしている。
象徴的なのはキャシーが好きな曲を聴きながら枕を赤ちゃんにみたててゆすりながら踊っている場面。家族をもたなくても、赤ちゃんを産めないように運命づけられていても、小さい赤ちゃんをいつくしみたいという気持ちがある。
あるいは「ポシブル」という、クローンのもとになったひとをたずねてみたいきもち。親ではないかもしれないが自分のモデルあるいは未来像になりうる何者かをさがしもとめずにいられないきもち。
家族とはどんなものか知らない人に、このような感情がめばえることはありうるのでしょうか。
著者は家族を持たない人をえがきながら、まるで家族を知っているかのようにふるまわせている。設定は近未来なのに、そこに描かれる感情は既知のロマンティックな愛憎である。
読みながら感じた違和感の一つはこのへんにあるような気がいたします。
家族など解体してしまえというのはかんたんですが、なかなかむずかしいことかもしれませんね。
家族は気に入らないからといって否定したりとりかえたりできるものではなく、選択の自由なく愛することしかできないのかもしれません。ちょうど日本語を母語として育てられれば、日本語が気に入らなくてもつかいつづけなければならないように。