Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

タリス・スコラーズを聴きにいきました

ひさしぶりに都会に出て 楽しみにしていた音楽会へ行ってきました

ピーター・フィリップス指揮のタリス・スコラーズのアカペラの合唱

16世紀のルネサンスの英国とスペインの宗教音楽を中心にしたプログラムです

 

ウィリアム・バード: 聖所にて至高なる主を賛美もて祝え(Laudibus in sanctis)

フランシスコ・ゲレーロ: マリアよ、あなたは全く美しい方(Tota pulchra es, Maria)

 同: めでたし、いと聖なるおとめ(Ave virgo sanctissima)

マシュー・マーティン: めでたし、いと聖なるおとめ(ゲレーロ作品に基づく)

ウィリアム・バード: 主よ、認めたまえ(Tribue Domine)

※休憩※

トマス・ルイス・デ・ビクトリア: レクイエム(死者のための聖務) (Officium Defunctorum)

 

マーティンは1976年生まれの現役の作曲家 それ以外は16世紀から17世紀初めにかけて活躍した人びとです

会場は西宮の兵庫県立芸術文化センター大ホール 2000人収容の会場が満席

17回目の来日とのことで人気のほどがうかがえます

ソプラノ4 アルト2 テノール2 バス2 というわずか10人のアンサンブル

5声または6声の曲を10人で分担して歌っていたようです

アカペラならではの澄んだ響きにホールが満たされ至福のひとときを過ごしました

静寂から音がたちあがるとき 曲が終わって静寂にもどるときの音の「たゆたい」は生演奏でなければ味わえないものでした

アンコールは2曲

アロンソ・ロボ: わがハープは悲しみの音に変わり(Versa  est in luctum)

アントニオ・ロッティ: 十字架につけられ(Crucifixus)

前半が聖母マリアを主題とした曲 アンコールを含めた後半は死者と受難をめぐる曲 というプログラムの意図がうかがえます

ビクトリアのレクイエムの「わが心は生活に疲れ」Taedet animam meam vitae meae 

Taedet の半音階は聴くたびにこころをゆさぶられます

20代後半のほの暗い谷のなかをさまようような日々 この曲をよく聴いていたことを思い出しました

ルネサンスの音楽は以前はどれも同じようにきこえていたものでしたが

聴きこむにつれてすこしずつちがいがわかるようになってきました

個人的な印象ですが 色にたとえれば

バードは灰色がかった青 ビクトリアは日の出前のかぎりなく濃い藍色 ゲレーロは地中海の空の青 という感じです

 

スペインの17世紀といえばエル・グレコ そしてイグナチオ・デ・ロヨラ アビラの聖テレサ 十字架の聖ヨハネなど カトリックの信仰の深みをきわめつくした人々がおり

ゲレーロやビクトリアの音楽もその文脈のなかにあります

と同時にこの時代が 魔女裁判という名の異教徒の迫害やアメリカにおける原住民の虐殺と富の掠奪などの黒い歴史をきざんだことも忘れたくない

ふと思う ビクトリアの深い敬虔な音楽とこのいまわしい歴史のかかわりをどう理解したらいいのか 彼はこの蛮行を知りつつ作曲をしたのだろうか

ナチスによる大量虐殺のすぐ近くで R・シュトラウスフルトヴェングラーが忘れがたい美しい音楽をつくっていたこと

あるいは今の日本で 放射能汚染などないかのように 日替わりでさまざまの演奏家が音楽をかなでるのを我々が楽しんでいること

そんなことも思い合わせます

アウシュビッツ以後あるいは福島以後 いっさいの芸術は空疎で無効なのかもしれません

それらのみにくい現実を直視して異議をとなえる芸術でなければ存在意義はなく それいがいはひまつぶしの極楽とんぼの気晴らしでしかないのかもしれません

にもかかわらず ビクトリアの音楽を聴いて深く心を動かされてしまう私がここにいます

気晴らしかもしれないけれどそれになぐさめられ どうしようもない浮世だけれどもあしたも生きてみようと思う私がいます

どう考えたらいいのかよくわからないままに...