かねてから注目していた裁判の、富山地裁の判決が10月21日に下された。当時16歳だった実の娘を強姦した男に懲役8年(求刑は懲役8年)である。「卑劣かつ悪質性の高い常習的な犯行」とのこと。8年というのはいかにも短すぎるように感じるが、強姦の日時と場所を正確に特定しないと立件は難しいらしく、実際は何度も繰り返されているにもかかわらず、1件だけの立件だったらしい。それでも求刑通りの判決が出たのは、その罪の重さが正当に判断されたと理解していいのだろう。
被告は、性交渉自体は認めているが、抵抗できない状態ではなかったとして無罪を主張していた。まったく反省していないように見えるし、実の娘の人生を台無しにしたことへの自覚も感じられない。
何よりも驚くのは、被害者の女性が実名と顔を出して告発したことであり、その勇気と正義感はどれほど称賛してもしたりない。今でもPTSDに苦しみ、薬が手放せない状態とのことだが、幸いに理解のある夫に巡りあえたのは、不幸中の幸いと言ってもいいのだろうか。
聖書では「七の七十倍赦しなさい」(マタイ18:22)と教えているが、反省しようとしない人までも赦すべきなのだろうか。
その聖書の教えを忠実に守り続けているのが、キリスト教の再洗礼派の流れを汲むアーミッシュの人々である。
ドナルド・B・クレイビル他著『アーミッシュの赦し』(亜紀書房)によれば、2006年、アーミッシュの通う学校に男が押し入り、女子児童・生徒を監禁して10人に発砲、5人が亡くなり、直後に自殺する事件があった。附属池田小事件を連想させるこの事件が驚きを与えたのは、そのあとに犠牲者の親を含むアーミッシュの人々が見せた赦しである。加害者家族のもとを訪れて、加害者の死を悼み、その罪を赦し、彼の葬儀にも出席した。他人を赦さなければ自分も赦されないという聖書の教えを血肉化して、事件からまもないときに直ちに赦した、しかもことさらに目立とうともせず、慎みをもってごく自然に赦した彼らの行動は驚愕に値する。
なぜ、そんなにすみやかに、赦せるのだろう。
500年前、ルターの宗教改革と前後して生まれた再洗礼派は、その非暴力・無抵抗の主義から兵役拒否を行ったために、たびかさなる迫害に見舞われ、多くの人が死刑になったが、死刑台の上でも執行人を赦すというほど、赦しの姿勢は一貫して揺るがない。赦されると思っていなかった人が赦され、自分が赦されたことに驚いて、その後悔い改めるという例もあるという。あるいはまた、強盗に入られても武器で応戦せず、そのために殺された例もある。
それでも、あらゆる人間の集団がそうであるように、アーミッシュもまた、無垢な理想の社会というわけではない。聖書に忠実に生きる彼らは避妊も堕胎もしないので、一人の女性は平均6.8人の子どもを産むという(Wikipediaによる)。女性の性と生殖への権利はなきに等しく、性別役割の固定化も顕著である。というよりも、そのような近代的な権利意識や声高な自己主張から離れたところで生きようという意識が彼らにはあるようだ。テレビもインターネットも持たず、情報から隔絶しているから可能なのかもしれない。
そして、女性の権利の認められていない社会ではしばしば起こることだが、家族や教会の指導者による女性への性的虐待の報告が後を絶たない。被害を受けた女性たちが声を上げようとしても黙らされる。彼らのコミュニティの中にも、罪を犯した者への譴責の制度はあって、具体的には shunning (共同絶交)という、村八分のような形の、交際の拒否があるが、本人が悔悛した場合は共同体への復帰の可能性もあるようだ。さらに、教会の指導者や有力な男性が加害者である場合は、その罪が軽く扱われるであろうことは想像に難くない。
黙らされている女性たちは、加害者を赦すように促され、自らも赦さねばと思い込んでいるのだろうか。しかし、赦したために、不正義が放置され、さらに蔓延する結果につながるのだとすれば、むしろ聖書に逆らってでも、赦してはならないのではないだろうか。
冒頭の富山の女性は、あえて赦さないことによって、自分の人生を、なんとかして立て直し、生き直そうとしている。心から応援したいし、彼女の今後の人生に少しでもいいことがありますようにと切に願わずにはいられない。