『マディソン郡の橋』は、原著が話題になったころ翻訳で読み、その後原書でも読み、だいぶたってから映画を見、気に入ったので何度も見、原著を忘れかけていたので再読して、今ここ。
原作と映画とずいぶん趣がちがっている。原作はロバートの独白、しかもしばしば哲学的な独白がかなり多いのだけれど、映画ではそういうところはすべてカットされて、もっぱらフランチェスカの視点でドラマが進行し、ロバートはふらりとやってきていなくなるだけの存在で、その内面はあまり描かれていない。それで正解だったような気がする。男がしゃべりだすとろくなことはないからね。
もうひとつ、原作と違うのは、フランチェスカの二人の子どもが彼女の死後遺書を読む体裁にして、子どもの視点を取り入れたことによって、婚外恋愛のストーリーを相対化したこと。ママが散骨を希望?男と浮気?嘘だろ?ぶっ殺してやる!という始まりから、遺書を読むにつれてしだいに心境が変化し、母を理解し、希望通り散骨するまでの心の動き、それに伴って自分たちの家族との葛藤にも向き合う勇気が出てくるラストシーン。一度きりの人生をほかでもない自分のために、自分に正直に生きることを、母は最後に子どもに伝えたかったのかもしれない。
1965年のアメリカという舞台設定は、その2年前に出版されたベティ・フリーダンの『女らしさの神話』を補助線にするとわかりやすい。高等教育を受け、それぞれの分野でキャリアを築こうとしていたのに、いったん家庭に入ると、専業主婦のつとめに明け暮れて、いつのまにか能力を発揮する場を失っていくこの時代の女性の息苦しさをいちはやく指摘し、第二波フェミニズムのきっかけとなったこの書物は、フランチェスカの、どこか満ち足りていない日常を理解する助けとなるだろう。学校の先生として英文学を教えることに充実を感じていた自分はどこにいったのか。その自分を再び見出す手助けをしてくれたのがロバートとの、イェイツの詩をめぐる会話で、彼が帰ったあとイェイツの詩集を取り出して読むシーンが印象的だった。
夫は妻のこのような鬱屈にどれだけ気づいていただろうか。年老いて病の床で、お前にはしたいこともさせてやれなかったな、という場面、今さら言われてもという感じ。
ロバートの振る舞いでもっとも印象的なのは、あなたの話をもっと聞かせて、というフランチェスカへの〈聞く〉態度だった。世界中旅している人に比べて、田舎者の主婦の私には話すことなんか何もないという彼女に、それでも話すようにうながす。自分の話ばかりして女性の話に耳を傾けようとしない世間一般の男性とずいぶん違う。それまでの人生で彼女は自分の話をさえぎらずに聞いてもらうことなど一度もなかったのではなかろうか。あなたは決して単純な人ではないYou are anything but a simple woman だったかしら、うろ覚えのセリフなのだが、フランチェスカが自分でも気づいていないか忘れている彼女の個性というかかけがえのなさを、聞くことによって彼は発見したといえるかもしれなくて、それだからこそあの4日間は、単なる不倫という域を超えて、2人にとって生涯忘れられない出来事になった。
フランチェスカの知り合いの脇役の女性(なんという名前か忘れた)が、不倫がばれたために村中の鼻つまみになり、レストランに入ると冷たい視線を浴びて、耐えきれずに出て行って車の中で泣くシーンがある。郊外の狭いコミュニティのなかではとくに、婚外恋愛の代償はこれほど大きくて、息苦しくなるほどだ。けれどもフランチェスカはこの女性にひそかな連帯感を感じて、焼いたパイをもっていったりする。最後に遺書を託すのも彼女にだった。自分の気持ちに正直に生きただけで、なぜこんなに大きな代償を払わねばならないのだろう。
夫や子どもたちのことはもちろん大切だ。しかし、ごはんですよと呼んでもなかなか来てくれないし、来たと思ったらバタンと音を立てて戸を閉めるし、勝手にラジオのチャンネルを変えるし、黙っていても食事が出てくるのが当り前と思っているし、いったい私は家族の何なの?家政婦なの?と言いたくなる。
だからといって婚外恋愛は許されるのか、ということになるけれども、私は、不倫と聞くだけで条件反射のようにいけないことと断定することをためらう。なぜいけないのか、もう一度問い直してみたいと思う。不倫ということばがすでに偏見をはらんでいて、文字通りは人倫にもとるという意味で、人倫にもとる犯罪はほかにいくらでもあるのに、なぜ婚外恋愛だけがこの不名誉な名前で呼ばれて人でなし扱いされなければならないのだろうか。もしかしてそれは、父性を確実なものとしたい男たちの勝手に作り出した価値観だと言ったら言いすぎだろうか。聖書で姦通の女に石を投げる男たちは、我々の父性を脅かすなと主張していると言えないだろうか。女性の不倫は前述の脇役のように厳しく非難されるのに、男性の不倫や風俗通いはむしろ大目に見られる風潮、あるいは再婚禁止期間や嫡出推定などの法律とともに、本来不安定で不確実な父性を確定するために、それを脅かす行為をすべて犯罪化しようとする意識が、女性の婚外恋愛を貶める価値観を生んだといえるかもしれない。
私は、ためらいを感じながらも、しだいにロバートに近づいてゆくフランチェスカのことを応援したくなってしまったのだった。自分の気持ちに正直に生きた結果、公序良俗に反したとしても、それでいいのだと思う。たった一度きりの人生なのだから。
このようなひとつひとつの、公序良俗(という美名のもとに強いられる父権的秩序)への小さな異議申し立ての積み重ねが、女性の自由を、一歩一歩であっても、かちとってきたと言えるのではなかろうか。