Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

ラシーヌ「アンドロマック」覚書

絶望的な片思いの連鎖。

オレストはエルミオーヌを、エルミオーヌはピリュスを、ピリュスはアンドロマックを、そしてアンドロマックは亡き夫エクトールを愛している。

そのなかでぶれるのがエルミオーヌとピリュス、ぶれないのがオレストとアンドロマックである。

エルミオーヌを愛するあまりに、彼女にふりむいてもらうためには手段をいとわないオレストの一途な愛し方はほとんど気違いじみている。第1幕第1場で「愛している 」J'aime と目的語なしで告白するところ、愛はある種の絶対性を帯び、危険をはらむ。Oreste と韻を踏む funeste(不吉な)が、この荒々しい男の性格を要約している。

いっぽうのアンドロマックは、惨殺された夫エクトールの哀悼と思慕のみに生きる。ピリュスにどんなに求愛されてもふりむかない。エクトールを殺したアキレウスの息子なのだから当然だが。

オレストもエルミオーヌもピリュスも、愛し返してもらう可能性があるが、アンドロマックにはそれがない。愛する相手はすでに死んでいるのだから。

劇はオレストにはじまり、オレストに終わる。彼がこの劇の第二の主人公といってもいいかもしれない。

劇のなかでは言及はないがオレストは母殺しのために復讐の女神(エリニュス)に呪われた存在として登場する。夫アガメムノンの留守にアイギストスと同衾した母親であるクリュタイムネストラの不義を罰するために、姉エレクトラと共謀して殺した母殺しの罪を、観衆を含めてだれもが覚えている。第5幕の最後でオレストを取り囲む深い闇はエリニュスの再来といえるだろうか。

元ネタの神話と異なりエクトールの遺児を生かしたことでこの血なまぐさい劇に一縷の希望が残った(イリアスなどではエクトールとアンドロマックの子アスティアナクスはトロイア陥落の折にギリシャの兵士が塔から投げ落して殺害する)。侍女に託したアスティアナクスへの遺言のなかで「決して復讐するな」と伝えるアンドロマック。

Parle-lui tous les jours des vertus de son père ;

Et quelquefois aussi parle-lui de sa mère.

Mais qu’il ne songe plus, Céphise, à nous venger :

 あの子の父のよいところを毎日話してやって。ときどきは母のこともね。けれど、セフィーズ、ゆめゆめ敵討ちをしようなどと思わぬようにと(第4幕第1場、拙訳)

 

復讐の鬼と化したオレストときわだった対照をなす。復讐を諦めることの尊さ。

自分の父と夫を殺され、しかも夫の遺骸は車でひきずられて辱められ、祖国トロイアが灰燼に帰するのを目の当たりにしたアンドロマックが、復讐を諦めることにどれだけの努力を要するか、想像もつかない。

やられたらやり返す男性原理にもとづいて、10年つづいたトロイア戦争で流されたおびただしい血は、誰かが復讐をあきらめることによってしか止まらない。それが、すべての後ろ盾を失った無力な一人の女性によってなされたことに意味がある。どのような男性もこれだけの勇気のもちあわせはないだろう。

ラシーヌ「フェードル」を初めて読んだのは、フランス語を学び始めて4年目の、フランス文学科の小田桐光隆先生の研究室で、10人に満たない受講者の輪読はすぐ順番が回ってきて、17世紀の古めかしいことばに悪戦苦闘しつつ、意味をとるだけで精一杯だったことを思い出す。あれから数十年、小田桐先生から与えられた宿題をすこしずつやりながらこんな文章を書きましたが、先生はもはやこの世にはおられず、私もいつのまにか先生の亡くなった年齢を超えてしまいました。