Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

バーチャルなものとリアルなもの

ヨハネによる福音書の第20章、復活したイエスをまだ見ていない弟子トマスが他の弟子たちに「私はその手に釘の痕を見、指を釘の痕に入れ、手をその脇に入れるまで信じない」と言う場面がある。

Doubting Thomas という成語も生まれたこの逸話で、トマスは昔から不信心者の象徴とされてきた。

ヨハネと並ぶ有力な弟子の一人であったトマス自身も福音書を書いたが、それは正典にはならなかった。イエスの死後、ヨハネとの勢力争いに敗れたという説があり、この逸話はトマスを追い落とすためのヨハネの創作だったとする説もある。

それはともかく、私はトマスは正直で慎重な人だと思うし、人の噂を聞いても信じないだけで不信心呼ばわりされるのは気の毒だと思う。

この目で見てこの手で触れたものだけを確実でリアルなとして、伝聞で知ったことについては判断を保留するのは知的に健全な態度ではなかろうか。

新聞やテレビでさまざまなニュースが報道されるが、紙や画面の上だけで知ったことをリアルな現実として感動したり批判したり、どうしてできるのかふしぎでならない。新聞もテレビも嘘つきで偏向しており誤報ばかりなのに、信用して真に受ける天真爛漫が理解しがたい。

たとえば私は天皇に会ったことがない。写真や動画を見たり電気的に再生された声を聞いたことはあるが、生身の天皇に面と向かって肉声を聞いたことはない。私にとって天皇の存在は確実ではなく、その存在を信じるしかないもの。

あるいは、私の住む町のことはよく知っているが、その町が含まれる市となるとくまなく知っているわけではなく、それが含まれる府はほんの一部を知っているだけですでに茫漠とした印象しかない。まして日本の国などというものは私には少しもリアルに感じられない。ここが日本で私が日本人だと言われても、日本なるものの実体が不確かなものにしか思えない。すべてはバーチャルである、あるいは夢まぼろしであるのかもしれないのだ。

寺山修司の短歌に

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

というのがあるが、その存在を信じるしかないもののためにどうして身を捨てることができるだろう。身を捨てることができるとすればそれは、この目で見て触れてにおいをかいで声を聞いて、その身体の実在を実感できる生身の人のため以外にないのではないか。

 

9月25日は私の好きなピアニスト グレン・グールドの誕生日で今日10月4日は彼の命日。毎年この期間を Glenn Gould Week と勝手に名づけて、彼の遺した音源を聴いている。今日もヒンデミットシベリウスベートーヴェン、バッハなどを聴いていた。

グールドの生演奏は一度も聴いたことがない。何しろ32歳でコンサートをドロップアウトしてしまった人だから。電気的に再生された音でしか知らないこのピアニストは私にとってバーチャルな存在なのになぜこんなにもリアルに彼の音楽は私の心に響いてくるのだろう。

その存在を信じるしかないものや人が、ときに人の心を揺さぶることがある。ある種の芸術と、ある種の宗教だけに可能なことなのかもしれない。