Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

映画「セックスと嘘とビデオテープ」を観る

低予算で作った映画らしく、贅肉のないひきしまったシンプルな構成で、四人の男女の室内楽のような会話を中心に進む。
たとえば音楽に、サビのフレーズやクライマックスのようなものを、音楽で「イク」ことを人は求めてしまいがちだけれども、他方では、クライマックスも起承転結もない音楽もありうる。たとえばインドのシタールペルシャのウードなどによる永遠に続くような音楽。あるいはバッハのゴールドベルク。
同じように、セックスに絶頂があるべきものと考え、挿入によるオーガズムを至上と思いこんでしまうと、たとえばインポテンツや不感症は欠陥であり治療の対象となる。しかし、挿入だけがセックスではなく、ただ触れ合ってキスをしてゆるやかに語り合うだけでもすてきな交わりになりうる。
セックスを生殖目的でとらえるならば挿入以外認められないかもしれないが、むろん人は生殖のためだけにするのではない。生殖につながらないあらゆる性行為を罪と規定したカトリック教会の伝統から、あるいは女を産む機械としかとらえられない貧弱な発想から、そろそろ自由になってもいいのではなかろうか。
この映画に出てくる二組のカップルのうち、一方は挿入至上主義であり、出会うたびに熱く燃えるのだが、いつのまにか齟齬が生れてしまう。
もう一方は、片や不能で、奇妙なやり方で自らを慰めるだけの男、片や不感症の潔癖症で、夫の求めに応じられない女である。女は男の性癖を知ってはじめは拒否感を持つが、しだいに惹かれるものを感じ、後半では挿入によらないしずかな親密さに達する。
前者のカップルは男女とも金を稼ぐ存在なのに対して、後者のカップルの男は無職、女は主婦と、金を稼がない存在という対比も面白い。
金を稼いでいい女とやる人生と、少ない金で静かに過ごす人生とどちらが幸せなのだろう。
家具らしい家具もないグレアムの質素なアパートを、かわるがわる人が訪ねてくる。そのたびに「あいてるよ、どうぞ」と上機嫌で迎えて飲み物でもてなすグレアムのホスピタリティーがすてきで、訪問者は無意識のうちに彼に本音をさらけだしてしまう。男らしさの基準にはあてはまらず、奇妙な性的嗜好をもつ「変態」なのに、なんと不思議な魅力を持った男だろう。
そのグレアムが、激情的な怒りに駆られて自らの収集したビデオテープを破壊する行為は、昔の恋人を友人に寝取られていたことへの怒りゆえだろうか。いやむしろ私は、自らの長年の奇妙な趣味を全否定することによって、アンへの思いを確認するための行為だったように思えるのだ。


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