Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

生まれることは死にはじめること バッハのロ短調ミサをめぐって

Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine, et homo factus est. 

そして聖霊によって処女マリアより受肉し、人間となった。

キリスト教のミサ典礼文の「クレド(ニケア信条)」のなかの一文である。

モーツァルトハ短調ミサ曲(K427)では、この箇所はソプラノ独唱の天国的な至福に満ちたアリアで、とりわけ木管のソロとソプラノがからみあい響きあうカデンツァが美しい(フルートとオーボエファゴットの三つが三位一体を表しているのだろう)。

それに比べると、同じ箇所の典礼文につけたバッハのロ短調ミサ曲の、十字架やすすり泣きのモチーフに導かれた、暗闇のなかをさまようようなほの暗い音楽は、ひとり子の誕生を祝うよりはむしろ、ほとんど葬送のためかとさえ聴こえる。

この仄暗い雰囲気は、同じ3拍子と近親の調性によって、続く Crucifixus est (十字架につけられて)にそのまま引き継がれ、イエス・キリストの受難を痛切に物語る。

バッハにとって、御子の誕生は、その十字架上の死とセットになっていたと言えるだろうか。

子どもが生まれるのは、誰にとってもことほぐべきめでたい出来事かもしれない。しかし、イエス・キリストでなくても、誰でも、人は生まれると同時に死に始めるということもまた、否定できない真実である。

Bach, H moll Messe, Et incarnatus est

そういえば、バッハのクリスマス・オラトリオの中でも、御子の誕生を祝う華やかな響きのあとで、受難曲のコラール「いばらの冠」の旋律が鳴るのだった。あたかも、誕生と同時に、すでにむごたらしい死を予感するかのように。

氷期の天候不順もあって死亡率の高かった時代、自身も何人もの子どもと最初の妻の夭折を経験し、生まれることはすなわち死に近づくことという洞察が作曲家にあった。彼はそれを個人の感情の発露として作曲するのではなく、このような宗教曲のなかで表現した、といえるかもしれない。

モーツァルトに話を戻せば、作曲家は天上的に美しい Et incarnatus est を書いたあと筆を折り、このミサ曲のクレドは未完成のまま残された(もしも完成していたら、ベートーヴェンの荘厳ミサに匹敵する大作になっていただろう)。彼が十字架につけられる部分に曲をつけたらどんな音楽になっていただろうか。あるいは、あまりにも美しいアリアを書いてしまったばかりに、その後をどう続ければ自分でもわからなくなったのだろうか。

こちらはバッハの Et incarnatus est 

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こちらはモーツァルトの Et incarnatus est

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