Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

藺草慶子『櫻翳』を読む

藺草慶子の句集『櫻翳』(おうえい)を読みました。

黒板に数式のこる春の雪 

私が思い浮かべたのは、東北の地震のあと、生徒全員が避難したあとのがらんとした教室の情景でした。当たり前と思っていた日常からむりやり引きはがされたあとの、日常の名残のような黒板の数式。

けれどもちがうかもしれない。平凡な日常の中の、学年末の迫る春先のある日の、放課後の情景なのかもしれない。

春の雪の白とチョークの字の白。なごり雪のようにはかなく消える字。遠からず訪れる別れの日。

永き日の戸袋に戸のあつまりぬ 

 戸袋に材をとった俳句ははじめてでした。日が長くなって、雨戸を閉める時間がしだいにおそくなるころの、暗いはずの戸袋のなかまで、うっすらと光が射しているかのようでした。

降り出せる雨のひかりの針供養 

 針供養が春の季語というのは初めて知りました。「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春の雨降る」という正岡子規の歌のような、柔らかい春の雨粒の光と、寿命を終えて供養される針の光が溶け合っているかのようです。

天麩羅にするあれこれや遠花火

これを読んでむしょうに天麩羅が食べたくなった私でした。季語は遠花火なのでしょうが、天麩羅には夏が似合いますね。かぼちゃやなすやシソの葉ししとうなど、天麩羅に向く色鮮やかな野菜はみんな夏の野菜。ささやかでもはなやかな夏の夕餉と、暗闇の奥に聴こえる花火の音。

恋せよと蜩忘れよと蜩

 大胆な句またがりで18音。一度読んだら忘れられない句でした。「恋」「忘」漢字が似ていますね。まるで恋することと忘れることが対義語かのように。

片腕を引き戻されし瀧見かな 

 滝をながめているうちに、死ぬ気がなくても、つい引き込まれそうになる。黄泉の国の入り口みたいな瀬戸際から、ふと現実に引き戻される。死とは、こんなふうにすぐとなりにあるのかもしれない。

一対のものみないとし冬籠 

一対のものにはどんなものがあるだろう。靴。箸。狛犬。目。耳。どちらか一方が欠けるだけでさみしくなってしまうもの。たがいに支えあうことではじめて自分と相手の存在を意味あるものにしている、そんなもの。

十人の僧立ち上がる牡丹かな

この句集の代表句としてあちこちに引用されている句です。不思議な感じがするのは十人という数の捉え方。一斉に立ち上がる僧を、ひとりふたりと数えて、十人。一息で数えるには多すぎる数。「鶏頭の十四五本もありぬべし」のような概数で捉えるのが自然でしょう。十人という数をすでに知っていたのか。藤木清子の「戦死せり三十二枚の歯をそろへ」に似た不自然な正確さ。輪郭のくっきりした数の、剃髪の僧が立ち上がる奇妙なインパクト。牡丹の花の白さとの対照。

 

凛としたたたずまい。ひとつひとつのことばを大切にいとおしむ。奇をてらわず、それでいて新鮮。そんな句集でした。ターナーの絵を配した装幀も美しい。読んでいる間、しばし幸福なひとときでした。ありがとうございました。

 

 

句集 櫻翳 (ふらんす堂俳句叢書)

句集 櫻翳 (ふらんす堂俳句叢書)

  • 作者:藺草 慶子
  • 発売日: 2015/12/01
  • メディア: 単行本