生田武志著『いのちへの礼儀』を読みおわって、その問いの射程の広さと深さに驚嘆し、まだ消化しきれずにいる。
本の終りの方で、チェルノブイリ原子力発電所の近くの立入禁止地帯のことが出てくる。住民が強制退去させられて無人の町となって数十年、当初は強い放射能のために動植物の異常が見られたが、いまは青々とした森が広がり、多くの野生動物が生息しているという。むろんいまだ放射能の値はさがらず、奇形や異常もあるのかもしれないが、とにかく、人間という厄介な生き物がいなくなったあとは、何事もなかったかのように、生き物の楽園となった。福島第一の周辺の森も似たような状況であるらしい。
原発事故は人間にとってはこの上もない災禍であっても、人間以外の種にとってはむしろ僥倖であるのかもしれない。
何が善で何が悪なのか、多くの場合それは「人間にとって」であるにすぎず、人間にとっての善が必ずしも絶対的な善とは限らない。
神は全能で無謬で全善とキリスト教では教えるが、そうなるとこの世界のいたるところに存在する「悪」をどう説明すればいいかわからなくなる。それを何とか理屈で説明しようとする「神義論」は、けっきょくのところすべてこじつけなのではないかと思える。
とすれば、神が全能かつ無謬かつ全善という前提がそもそもまちがっているのではなかろうか。
神は善でもあり悪でもある。あるいは善でもなく悪でもない。善も悪もしょせんは人間の都合にあわせた価値だから。
人間がほろびては困るから原発事故は悪であるにすぎないのだ。人間なんていつかはほろびるのだ。レヴィ=ストロースが言ったように、世界は人間なしで始まったし、人間なしで終るだろう。人間がこの世からいなくなったあとも、何事もなく木は茂り、魚は泳ぎ、鳥は歌うだろう。
老子のことばに「天地は仁ならず」というのがある。英訳では Heaven and earth are merciless. となっている。神は慈悲深い存在などではなく、人間のことを何とも思っていないのかもしれない。
