京都シネマで封切られたばかりの映画『ウナイ 透明な闇 PFAS 汚染に立ち向かう』を見てきた。
身近な環境汚染をめぐって、一人の女性のいてもたってもいられないような不安がもう一人の女性を触発し、そこから生まれた小さなドキュメンタリーがまた別の女性を動かし、そのようにバトンを受け渡すようにして危機感が共有されて、やがて大きな運動につながってゆく様子に深く心を動かされた。
沖縄の米軍基地から垂れ流される汚染物質PFASのために川は泡立ち、水道水に混じり、分解されないままに、人々の、とりわけ妊娠・子育て中の女性の体内に取り込まれる。その毒性や、危険とされる閾値は不確定の部分もあるとはいえ、低体重児が生まれたり癌が増えるリスクがあるとされている。
「女性たち」を表す沖縄の言葉「ウナイ」が示すように、声を上げるのも、それに声を合わせるのも、具体的な行動に移るのも、みな女性たちで、彼女らが手を取り合って危機に立ち向かってゆく姿が印象的だった。かつて水俣で、石牟礼道子をはじめとする女性たちが、海を汚染する企業の不正に対して真っ先に声を上げたことを想起する。
もともと沖縄には柳田國男のいう「妹の力」、女性たちが霊的な力をもって共同体を守るという価値観があり、女性の祭司である「ノロ」やシャーマンの「ユタ」の存在が知られている。
科学万能の時代に、このような女性の霊力などもはや無意味なのだろうか。迷信的な疑似宗教であるに過ぎないのだろうか。しかし、この映画に登場する女性たちの、共同体の危機の徴候をいち早く感じとる鋭敏さ、そして共同体を救おうとする使命感は、彼女らがまぎれもなく「妹の力」の伝統のよき後継者であることを示してはいないだろうか。
そのような鋭敏さは、本来は男性にもそなわっていたはずなのに、子育てや家事ををすべて女性に任せてきたために、身近な水や空気の汚染に対する感度を、もはや失ってしまったのだろう。
インタビューを受ける女性たちの声をさえぎり、上空を轟音をたてて飛ぶ米軍の飛行機が苛立たしい。汚染源が基地であるのは明らかなのに、米軍は責任を認めようとせず、立ち入り調査を認めず、汚染した川の掃除は日本の当局に任せきりである。
ドイツの街での同様の例が興味深かった。そこでも米軍基地によるPFAS汚染が問題となったが、市当局が立ち入り調査を行い、米軍は責任を認めて、対策を講じる約束をしたという。ドイツでできることがなぜ沖縄でできないのか。悪名高い日米地位協定のせいである。
いつまでアメリカのやりたい放題は続くのだろう。米軍兵士による強姦事件と同じくらい悪質で意図的なこの環境汚染は、もしかしたら世代を超えて長期的な健康への悪影響をもたらすはずなのに、日本の当局は手も足もでない。なんと情けない体たらくだろうか。
自ら「私は執念深い」という平良いずみ監督、自分自身も沖縄で子育て中であり、この危機を自分のこととして切実に受け止める監督の、同じ立場の女性たちへの共感を込めたまなざし、広島・横須賀・横田基地など同様の被害に苦しむ地方、さらには海を超えてアメリカ・ドイツ・イタリアに飛び、同様のPFAS被害に苦しむ女性たちと語り合い、抱き合う行動力が、この映画を最後まで目の離せないものにしている。ジュネーヴの国連のCEDAW(女子に対するあらゆる差別の撤廃に関する条約)の委員会に参加して、一分間のスピーチにすべての想いを込め、世界的な場でこの問題を公にしたことは特筆に値する。
とはいえ、CEDAWといえば、つい最近も、「日本の皇室制度は女子差別の疑いがある」と皇室典範の改正を促したCEDAWの勧告に対して、日本政府が内政干渉と反発し、この委員会への拠出金を払うのをやめたというニュースは記憶に新しい。国連の決定をないがしろにする傲慢な姿勢は、米国の大統領の猿真似だろうが、まことに見苦しい。
帰国後に、女性たちが各省庁の官僚に要望書を出す一幕も、役人たちの、相手の目を見ようともせず、言い逃れと論点回避にみちた答弁書を棒読みする姿にほとんど絶望に近いものを感じる。水俣と同じ轍を踏まなければいいが、と思う。水俣でも、国と企業が正式に公害を認めたころには、すでにおびただしい死者と患者が出ていた。
壁に向かって卵を投げるようにむなしく思えるほど、多くの障害と無理解と誹謗があっても、なお声を上げることをやめない沖縄の女性たちに、心から敬意を表したい。この日の観客は両手の指で数えられるほどの人数だったけれども、もっともっと多くの人に、この映画を見て、危機感を共有してもらいたいと思う。