Dolcissima Mia Vita

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流れに逆らわずに生きること 有吉佐和子『紀ノ川』を読んで

有吉佐和子はここ数年でよく読むようになったが、物語を読む醍醐味を味わわせてくれる好きな作家の一人である。今までに読んだのは『連舞』『仮縫』『更紗夫人』『悪女について』『開幕ベルは華やかに』『和宮様御留』など。彼女の小説によく出てくる、芯の一本通った女性像が好きだ。
『紀ノ川』も数年前に一度読み、このたび再読して、やはりすてきな物語だと感銘を受けた。
主人公が訪問先の誰もいない玄関で、手土産に持ってきた卵を一つ取り出してかんざしで穴を開けてつるりと飲んでしまうシーンが好き。
娘の文緒が初めて自転車に乗れるようになって、興奮して裾をはだけながら乗り回す場面も面白い。ほぼ同じ時代だと思うが、萩原朔太郎が初めて自転車に乗ろうとした時の悪戦苦闘と乗れるようになった喜びを書き記した「自転車日記」を思い出す。大正の終わり、自転車が珍しかったころの人々の高揚した気分が伝わってくる。
随所に現れる紀州なまりは、河内で育った私には少し異質で、しかしどこかなつかしい。可愛らしいという意味の「かいらし」という言い方は、知り合いがよく使っているが、彼女の母方の里が吉野で、吉野川から紀ノ川に至る川の流域と方言の分布は、もしかしたら重なり合うのかもしれない。
 
その川の流れのような大河小説は、花という一人の女性の、川の流れに逆らわない柔軟な生き方、夫を立てて自分は一歩退く婦徳をわきまえた、娘の文緒からすれば時代遅れの封建的な考えを持ちつつも、確固たる自分の芯はいささかも揺らぐことなく、その人徳で周囲の敬愛を集める生き方が何よりも魅力的で、終わり近くで「自分が忍従していると思ったことは一度もない」という述懐が示すように、自ら顧みても悔いのない立派な生涯だったのではなかろうか。文緒には激しく反抗され、長男の政一郎はたよりなく、子どもの一人には先立たれ、失望や落胆もいやというほど味わっても、最後は孫の華子に話を聞いてもらい、古い本を読み聞かせてもらう。なんと幸せな一生だったことだろう。青鞜派の最先端のフェミニズムにかぶれて家を飛び出した文緒も、最後は花を頼って戻ってくるあたりも、結局は花の掌の上で踊らされていただけなのかもしれない。
 
興味深いのは男たちの描き方。敬策のように経済力と政治力をもって立派に活躍する男ばかりでなく、弟の浩策のように世を拗ねたひねくれ者、政一郎のように親の期待に応えない者なども、著者の筆によって生き生きと描かれる。活躍しない、活躍できない、パッとしない男も存在を許されている。さらには地主の敷地内の男衆部屋の、飼い殺しと呼ばれる男たち、小作人だが根が愚鈍だったり怠け者だったりするために家族を養うことができず、ときおり雑用を言いつけられてこなしながらのろのろと暮らす男たち。社会保障制度の整わない時代も、引きこもりや依存症などで社会に適応できない人々はもちろん存在していて、そういう人々のセーフティーネットとして地主が機能していた様子が窺われる。文緒に言わせれば過去の遺物でしかない地主制度にも、人々に恩恵を施す部分がなかったわけではないのだろう。