3月21日
近々聴きに行くので予習中なのだけど、シュトラウスの英雄の生涯を途中で退屈せずに最後まで聴けたことがいまだにないのは、聴き方が悪いのかしら。
前半の長いヴァイオリンソロで眠くなり、後半の過去作の引用でうんざりする。あまりに標題的なせいか、ロマン的な自意識過剰が鼻につくのか。
英雄という存在そのものがすでに時代遅れなのかも。ナポレオン以後、英雄の名に値する人が出ただろうか? 英雄の対極の、平凡な一家庭人を描いた家庭交響曲のほうが、曲としてはるかに聴きごたえがあるし、卑小な小市民の我々にふさわしい気がする。
3月24日
ウィリアム・ダルリンプル William Darlymple 著『9つの人生 現代インドの聖なるものを求めて』Nine Lives: In Seach of the Sacred in Modern India を再読。
スーフィーの修行者について書かれた章を読む。ヒンズー教と接触し相互に影響を受けつつ、正統のイスラームから踏み外して、娼館の集まる街に移り住むスーフィーの行者は、難しい教義よりも宗教的法悦を重んじ、宿なしや文字を知らぬ者や女性を温かく迎える。娼婦や収税吏など見捨てられた人々と食事をしたイエス・キリストを思い出す。
そのスーフィーの宗教的実践が、イスラム原理主義の人々の顰蹙を買い、その聖者廟を爆破される事件も最近起こったらしい。
「聖なる愚者」を意味するカランダル qalandar、髭を伸ばしボロを纏い放浪する行者は、ロシアの小説に出てくる巡礼者に似ていないか。規範的な宗教の枠からはみ出して、定住を厭い清貧を甘受する宗教者たちの群像を、インドからパキスタン・アフガニスタン・ロシアにまたがって見ることができるかもしれない。
そういえば、流浪の民族ロマもまた、インド北部をルーツとするらしい。さらに遡るならば、狂乱と酩酊のうちに放浪するギリシャ神話のディオニュソスにまで行き着くだろう。彼もまた、小アジアから中央アジアの人々に信仰された神であった。
スーフィーの聖者廟で歌い踊られるカッワーリーあるいはカウワーリー qawalli の音楽を、先日からYouTubeで聴いている。太鼓とアコーディオンの刻むリズムに乗って延々と続き、ほとんどトランス状態になって即興的に展開する歌には、魔術的な魅力がある。難しい教義を知らない信者にも、文字を知らない人々にも、聖なるものを垣間見させる何かを持っているのだろう。