9月6日
円地文子『私も燃えている』(1959年)読了。
登場人物同士が偶然に出会う場面が多く、全員が著者の操り人形のようで、それが物語のリアリティを弱めている気がした。さらに、何人もの女を泣かせて、自分は研究一筋で、しかしいざとなると自分の身を挺して仲間を守る香取という男がかっこよすぎてかえって気障で、こういう男とは友だちになりたくないなと思ってしまう。(ドラマでは田村正和が演じたそうで、ハマり役だっただろう)。
それでも読み続けられたのは、中年の三人姉妹、家を継ぐことに偏執する類子、類子の夫と寝てしまう和子、そして類子の娘千晶と張り合って香取に懸想する宇女子という三人の思惑のもつれから目が離せなかったからだ。
1959年という時代、原子物理学が、おそらくは今よりもはるかに魅力的で輝かしい未来を約束してくれるように思えた時代に、張り切って研究にのめり込む男がいる一方、原爆の記憶もいまだに生々しく、原子力の平和利用に懐疑的にならずにいられない人々も少なくなかった。この年には明仁・美智子の結婚もあり、高度成長前夜の、高揚と期待に満ちあふれた時代の一断面を、この作品は切り取ることに成功している。
9月7日
夜中に雨が降って、少し涼しくなって、ようやく秋の気配を感じる日、リヒャルト・シュトラウスの四つの最後の歌のなかから「九月」Septemberを聴いている。ヘルマン・ヘッセの詩の、庭に降りそそぐ雨を表すのは、弦楽器の下降する分散和音、アカシアの金色の葉がはらはらと落ちてゆくのが目に見えるようなのは、きらきらひかるフルートの下降するパッセージ。この曲を初めて聴いたのも九月だったと思い出す。
四つの最後の歌の「九月」のあとは、眠りにつく時間についての詩、そして夕映えについての詩が続く。最晩年の作曲家の心をとらえたのは秋であり眠りであり夕映えであり、衰亡してゆくものたちなのだった。
四つの最後の歌とともに、弦楽合奏のためのメタモルフォーゼン、そしてオーボエ協奏曲など、80歳を超えた巨匠の練達の筆になる深さと清澄さを併せ持つ音楽を、昔から愛してきたし、これからも愛するだろう。
9月8日
読み始めてから再読と気づいた「地唄」は、再読してもやはり切ない余韻を残す。盲目の琴の師匠と、外国人との婚約ゆえに勘当された彼の娘の再会(父は娘が目の前にいることに気づかない)で、琴の調律のわずかな乱れを彼女が直した瞬間の父の表情の変化が印象的。
尼僧院やカトリック教会などの神聖な祈りの場における意外にどろどろした人間関係、そこに闖入してくる俗人が空気をかき乱す「美っつい庵主さん」「江口の里」も引き込まれる。正妻・小姑・妾が主人の死後顔を付き合わせて暮らすはめになる悲喜劇「三婆」も、くすりと笑わせて、やがてしんみりさせる。
一度は生で聴いてみたいアスミク・グリゴリアンの歌うシュトラウス「九月」