阪神淡路大震災30年の今年1月17日に封切られた映画『港に灯がともる』を、京都の出町座で見てきた。
ことばになる前のため息、うめき、あえぎ、泣きじゃくりながら話される、音節のさだかでないことば、意味をまとうまえの原初的な叫び、そのようなものが聞こえてくる映画だった。
はっきりと言語化できるならば、もはや苦しみの半ばは解決されているのかもしれない。ことばとして分節される前の、声にならない声に、いかにして耳をすませ、耳を傾けるかを問われているような気がした。
冒頭、泣きながら、つかえながら自分の悩みを語る灯さんがアップになるが、耳を傾ける人は映らない。ときおり、低く相槌を打つのが聞こえるので、誰かが聴いているのはわかるが、聴く人は自らの存在を消して、ただ灯さんに耳を傾けている。
それからだいぶ経って、別のアングルからの別の場面で、聴いているのは垂水のクリニックの医師だとわかるのだが、その医師の机の上のパソコンが閉じられているところに注目した。
それ以前に、はじめにかかった病院の医師が、パソコンの画面を見ながら話を聞き、眠れないという訴えに、それでは薬を出しましょう、とほとんど機械的と思えるほど簡単に結論を出していたのとは対照的に、パソコンを閉じて相手に向き合って、言いよどむ灯さんを辛抱強く待ちながら、耳を傾けている。
忍耐強く耳を傾けるもう一つの印象的な場面は、灯さんが父親の家に行って、話し合ううちにお互いに感情が昂ってきたとき、泣きながら彼女がトイレに入る場面だった。ただトイレの扉だけが映る数分間、しゃくりあげる灯さんの声だけがずっと続く。映像的には変化のないこの場面をあえて長尺で撮る意図は、もはや視覚にさえ頼らずに、ただ声だけに集中して、その声に耳を傾けようということだったのではなかろうか。結論を急ぐのではなく、泣き止むまでそこにいて、泣く声を聴く。そんなふうにして、声にならない声を聴くなどということを今までしてきたことがあっただろうか、と自分に問いたくなった。
灯さんと父親の間の葛藤の根底にある、在日としてのアイデンティティの問題をめぐって、最近見た映画『スープとイデオロギー』(ヤン・ヨンヒ監督)と読んだ小説『葉桜の日』(鷺沢萌著)を思い出していた。
『スープとイデオロギー』では、北朝鮮に心酔する両親が、4人の子どもたちに幼いころから過剰なほどの民族教育を受けさせ、3人の兄を、理想の国と思われていたその国に移住までさせる。幻想はあえなく崩れ去り、苦い悔恨を感じつつも、異国の息子たちに仕送りを続ける気丈で朗らかな母親の姿が印象的だった。
一方『葉桜の日』では、自らの出自を否定して、生まれ育った朝鮮人の町には足を向けようともせず、実の子を朝鮮籍にしないためにわざわざ拾い子として養子縁組までする。それでも、その町で昔世話になった恩人や友人との縁は切れることはなく、絶えずお互いを気遣い、助け合う。
在日と一口に言っても、祖国への思いの濃淡や愛憎が一人一人違うのは当然で、忘れてしまいたい過去である場合もあれば、生きていく支柱である場合もあろう。
姉の結婚をきっかけに、帰化申請に動く家族の中で、ただ一人帰化を拒む頑固な父親を、灯さんは最後まで理解することができない。父親の両親の写真には民族服を着た姿が写っているが、彼自身は普通の洋服を着ているし、韓国語も話さないように見える。民族意識は受け継がれていないにもかかわらず、国籍を変えれば自分が自分でなくなるかのように感じるのは奇妙なようにも思える。
民族意識がしっかりと伝承されればうまくいくというものでもないのは、『スープとイデオロギー』のヤン・ヨンヒさんが、両親から民族教育を施されたにもかかわらず、長い間それを受け入れられず、金日成親子を崇拝する両親を憎んでいたことからも察せられる。彼女は家族の映画を撮り続ける行為を通じて、長い時間をかけて彼らを理解するようになったのだった。
この映画の終盤で、灯さんが長田区の震災前後の人々の写真展を企画する成り行きは、そのような小さな一歩ではあっても時間をかけて、父の生きた場所と時代とその背景の民族意識を理解する始まりだったのかもしれない。
誰しも、親の生きた時代を実体験として持つことはできないし、親が昔はああだったこうだったと説教されるのも不愉快なものだが、過去から逃れることは誰にもできず、少しずつでも理解しようとするのが人間の成熟なのかも、とも思う。
ふと思ったのは、灯さんの母親の存在感の薄さである。彼女もまた韓国籍だが、民族意識をめぐる苦悩は描かれず、お葬式のあとの午餐で、灯さんと父親が言い争う場面でも、どちらにも加担せず、まあまあと言いながら場を収める役割しか果たしていない。帰化申請をめぐってためらう様子もない。
父親と灯さんの葛藤を軸にする演出の都合から、母親の思いは描かれなかったのかもしれないが、彼女がどう感じていたか、たとえばお葬式の場面で、第三の意見を述べて場をかき回すようなことがあっても面白かったのではないか、と思う。儒教的な父権的価値観がいまだに健在で、そこでは、女性は黙りつづけるしかないのだろうか。
灯役の冨田望生さんの、灯が憑依したような演技、とりわけ精神の平衡を崩してゆくところ、また、アルコール中毒の発作の出た青木さんを宥めようとするところ、深く印象に残った。数分に及ぶ長回しでも緊張感が途切れない様子に引き込まれて見入ってしまう。
うちの上の子が震災3ヶ月前に生まれたので灯さんと同学年、末の子が先日成人式だったこともあって、なんだか自分の娘を見ているような感覚だった。すばらしい演技をありがとうございました。
