Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

徳富蘆花『不如帰』あるいは女であることの絶望

徳富蘆花『不如帰』読了。

同じ時期に喀血した正岡子規が、血を吐いて啼くと言われるホトトギスにちなんで俳号をつけたように、本書のヒロインもまた肺結核によって苦しむ。「帰るに如かず」の当て字からは、不幸ばかりに見舞われたこの世を離れて、早く森に帰るに越したことはないという厭世的な思いも窺える。生母との死別、継母との軋轢、ようやく好きな人と結婚したあとも、姑からの意地悪、あげくのはては発病をきっかけに、当人たちの意思と無関係に引き裂かれる運命。「もう二度と女には生まれたくない」という悲痛な叫びは、家制度に押しつぶされる全女性の嘆きを代弁する。

同じ時期に同じような運命に見舞われた人として山川登美子が思い浮かぶが、彼女が生涯の終わりに「をみなにて又も来む世ぞ生まれまし花もなつかし月もなつかし」と詠んだのとは正反対に、このヒロインの、女性であることへの絶望の深さははかりしれない。

もちろん瑕疵はある。千々岩や山木などの悪玉と善玉の対比があからさまであること。京都のプラットフォームでの一瞬の邂逅のように、感傷的・メロドラマ的要素が強すぎること。美しい浪子と醜い山木の娘というあからさまなルッキズム

その一方で、二度と女に生まれたくないとヒロインにつぶやかせるほどの女の絶望を描く視点は、少なくとも同時代の文学にはあまり見当たらず、むしろアンナ・カレーニナボヴァリー夫人の系譜に連なるものと言えないだろうか。彼女らと同じく浪子も、未遂に終わったといえ、自殺を企てる。

彼女らと違って浪子は不倫をせず、ひたすら夫の武男を思い続けるわけだが、その辺りは北村透谷の潔癖な恋愛至上主義ないし一夫一婦至上主義の流れをくんでいるとも言えそうだ。


地の文が文語体、会話文が口語体なのにはじめは面食らったけれども、慣れるとなかなか読みやすい。ただし、文語文なのに新かなづかいなのがどうも気持ち悪くて、たとえば「出づる」→「出ずる」などはひどく違和感がある。