Dolcissima Mia Vita

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男性の攻撃性の拒絶 映画『一月の声に歓びを刻め』を観て

三島有紀子監督の去年公開された映画『一月の声に歓びを刻め』を観た。

次女が幼いころ性暴力を受けたあと遺体で発見された洞爺湖岸に向かって、深い雪の中をよろめきながら、うめきながら歩き、「れいこ!辛かったな!お前は汚れてなんかいねえ!」と叫ぶマキの声が、時空を超えて、大阪の堂島にいるもう一人のれいこ、同じように子どものときに性暴力を受け、しかしそこから生き延びて、泣きながら歩き続けるれいこの耳に届いているかのように思えるラストシーンであった。

47年前に亡くなった次女のことを孤独な部屋の中で思い出し、反芻しながら、次第に感情が高まってゆき、最後には、かつて自分の性器のあった場所を激しく殴りつける、カルーセル麻紀扮するマキの演技が鬼気迫る。

マキが性器を切除したのが次女の亡くなる前なのかあとなのか、はっきりと示されていないが、その行為は、男性という生き物が宿命的に備えてしまっている加害性あるいは攻撃性の拒絶ではなかったか。それは同時に、幼い少女の人生をめちゃくちゃに踏みにじった男性に代わって罰を受け、罪を償う行為ではなかったか。

洞爺湖を舞台にしたこのシーンは、大阪・堂島のもう一つのシーンと響き合っているように思う。

堂島にいるれいこが、一夜限りのボーイフレンド、トト・モレッティとデートしているとき、れいこの知らないうちに彼女をデッサンするトト。彼は漫画化志望で絵を描くのが好きらしいのだが、その絵を見つけたれいこは、なんで勝手に私の絵を描くのよ、と激しく怒る。

れいこは自らの受けた性暴力を告白しながら、泣きながら、被害に遭ったあの時と同じ金魚草の咲いているところに歩み寄り、片端から花をちぎり取る。私は何も悪いことをしていないのに、なぜ私が罪悪感を持たなければならないのか、と憤りながら、呪いながら。

黙って話を聞いていたトトは、れいこを描いた絵にライターで火をつけ、ちぎり取られた花と一緒に燃やす。

花を映し出すシーンが何回も繰り返される。あの時のあの男の唇のような花、花とは生殖器に他ならない。それをちぎる行為は、生殖器への復讐であり、洞爺湖のマキの性器切除と繋がっていく。

花とともに燃やされるトトの絵も、男性的な攻撃性の象徴だろう。見ること、とりわけ相手に知られずに窃視したり盗撮したりして、値踏みし、品定めし、物扱い(objectify)する行為こそ、相手を踏みにじる。それにようやく気づいたトトが絵を燃やすのは、自らの攻撃性への反省だった。

舞台は第1章の洞爺湖、第2章の八丈島、第3章の堂島と移り変わる。あふれんばかりの水に恵まれた前二者に対して、堂島には水がない。堂島川という川があるにはあるが、人間に管理された貧相な川である。水の都と言われたのも今は昔、川は暗渠とされ、地下鉄工事で井戸は涸れ、ただのコンクリートの砂漠となった大阪の街は、あらゆる命を干上がらせるかのように思える。堂島のシーンだけがモノクロームであることが、一層その砂漠感を高めている。その街を孤独に歩き続けるれいこに、これからも生き延びる力を与えるものがもしあるとすれば、それは、はるか遠くから届くマキの声なのかもしれない。


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