12世紀の哲学者 ユーグ・ド・サン・ヴィクトル Hugue de Saint Victor (サン・ヴィクトルのフーゴーと表記されることもある)の著作をぼつぼつ読んでいる。
パリのサン・ヴィクトル修道院で活躍したこの人は、有名なピエール・アベラール(エロイーズとの恋愛沙汰で知られる)の同時代人。
その中にこんな一節があった。
Delicatus ille est adhuc cui patria dulcis est; fortis autem iam, cui omne solum patria est; perfectus vero, cui mundus totus exsilium est.
祖国が甘美であると思う人はいまだ弱い人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。(『ディダスカリコン』19章)
なんとかっこいい文章を書く人だろう。日本スゴイなどと自慢する人々が哀れに卑小に見えてくる。どの国に属していようと関係ない。故郷だの祖国だのは自らの小さなエゴの投影でしかない。個別的で偶有的なものから自らを解き放って、広く普遍的な視野の中で自らの位置を相対化させるのが哲学的なものの見方だろう。
同じような考え方は、約1世紀後、13世紀ペルシャの詩人ルーミーにも見られる。英語訳で引用する。
I am free, free, I am free because I am in love with Allah.
I am in love with my Creator,
Slave to no human, I am the servant of my love Allah.
There is nothing to tie me down.
祖国を愛するとはそれに縛られて奴隷になること。勤労や納税の義務を負わされること。それはほんとうに自由な生き方とは言えない。
キリスト教とイスラム教の境界を超えて、このような自由な世界観が共有されていたのは面白い。もちろんこの時代、近代的な国民国家などはなく、国境はもっとゆるやかで、だからこそキリスト教圏とイスラム教圏の間に豊かな知の交流が可能だった。
いまの時代、国家に属さずに生きるのはほとんど不可能で、地球上にすき間なく国境がはりめぐらされ、パスポートなしでそれを超えることもできない。息苦しい。
物理的に国家から自由になれなくても、せめて心の中で、どの国にも属さないように生きてみたいと思う。