Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

人間は弓、神は射手

ペルシャの詩人ルーミー Rumi(1207-1273)の『ルーミー語録』(井筒俊彦著作集第11巻)のなかにこんな一節を読んだ。

人間は神の権能の右手(めて)に握られた弓のようなものである。神がその弓をいろいろなことをするのにお使いになる。この場合、本当の行為者は神であって、弓ではない。弓は道具であり、手段であるにすぎない。弓の方ではうつけ心で、神のことなどまるっきり意識にない。だが、また、そうであればこそ、現世なるものが存立していけるのではあるが。自分が誰の手に握られているのか意識している弓があったら、それこそ大変な弓というべきであろう。(井筒俊彦訳)

自分の自由意志で行動しているつもりでも、しょせんは「うつけ心」ghaflat の無自覚のまま、神の手のひらの上で踊らされているに過ぎないのが人間。

「うつけ心」は井筒の解説によれば「第二義的、第三義的なものにうつつを抜かして第一義的なものを忘れている実存のあり方。宗教的、形而上的な無自覚である」とのこと。無自覚とはいってもなにも意識していないという意味ではなく、自己意識はあるけれども、その自己を中心とした狭い世界認識こそがうつけ心なのだという。

この一節に立ち止まったのは、ハリール・ジブラーン Kahlil Gibran (1883-1931)の『預言者』The Prophet のこの美しい一節を読んだ後だったから

You are the bows from which your children as living arrows are sent forth.

The archer sees the mark upon the path of the infinite, and He bends you with His might that His arrows may go swift and far.

Let your bending in the Archer's hand be for gladness:

For even as he loves the arrow that flies, so He loves also the bow that is stable.

親は弓であり、その弓から、生ける矢として、子どもたちは放たれる。

射手にははるか遠くの的が見えていて、射手は力の限り弓をひきしぼり、矢が速く遠くまで飛ぶようにする。 

射手の手の中でたわむとき、喜びをもってたわみなさい。

なぜなら、射手は飛んで行く矢を愛するのと同じように、とどまっている弓をも愛するのだから。(拙訳)

原文のまま引用したけれど、二行目の archer は大文字で書くべきなのだろう。そのあともずっと大文字だから。ここでは神が射手に喩えられている。

ジブラーンがルーミーを知っていたかどうか、いずれにしても同じ発想の上に書かれている。人間の意志などちっぽけなもので、神こそが人間を通してわざをおこなう。ジブラーンの上記の詩のべつのところでは、They come through you, but not from you. (子どもたちは親を通ってやってくるが、親から来るのではない)とも言っている。神の道具あるいは触媒のようなもの、それが人間。

二人を読み比べると、ルーミーは人間のあさはかさ・はかなさを強調するのに対して、ジブラーンは、はかないけれども、はかないがゆえに、神はそんな人間を愛してくれる、という、希望に満ちたメッセージになっているといえるだろうか。

 

 

 

預言者

預言者

 

 

天地は仁ならず

生田武志著『いのちへの礼儀』を読みおわって、その問いの射程の広さと深さに驚嘆し、まだ消化しきれずにいる。

本の終りの方で、チェルノブイリ原子力発電所の近くの立入禁止地帯のことが出てくる。住民が強制退去させられて無人の町となって数十年、当初は強い放射能のために動植物の異常が見られたが、いまは青々とした森が広がり、多くの野生動物が生息しているという。むろんいまだ放射能の値はさがらず、奇形や異常もあるのかもしれないが、とにかく、人間という厄介な生き物がいなくなったあとは、何事もなかったかのように、生き物の楽園となった。福島第一の周辺の森も似たような状況であるらしい。

原発事故は人間にとってはこの上もない災禍であっても、人間以外の種にとってはむしろ僥倖であるのかもしれない。

何が善で何が悪なのか、多くの場合それは「人間にとって」であるにすぎず、人間にとっての善が必ずしも絶対的な善とは限らない。

神は全能で無謬で全善とキリスト教では教えるが、そうなるとこの世界のいたるところに存在する「悪」をどう説明すればいいかわからなくなる。それを何とか理屈で説明しようとする「神義論」は、けっきょくのところすべてこじつけなのではないかと思える。

とすれば、神が全能かつ無謬かつ全善という前提がそもそもまちがっているのではなかろうか。

神は善でもあり悪でもある。あるいは善でもなく悪でもない。善も悪もしょせんは人間の都合にあわせた価値だから。

人間がほろびては困るから原発事故は悪であるにすぎないのだ。人間なんていつかはほろびるのだ。レヴィ=ストロースが言ったように、世界は人間なしで始まったし、人間なしで終るだろう。人間がこの世からいなくなったあとも、何事もなく木は茂り、魚は泳ぎ、鳥は歌うだろう。

老子のことばに「天地は仁ならず」というのがある。英訳では Heaven and earth are merciless. となっている。神は慈悲深い存在などではなく、人間のことを何とも思っていないのかもしれない。

 

いのちへの礼儀 (単行本)

いのちへの礼儀 (単行本)

  • 作者:武志, 生田
  • 発売日: 2019/03/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

ハリール・ジブラーン『預言者』再読

レバノンの作家 ハリール・ジブラーン Kahlil Gibran が英語で書いた著作『預言者』The Prophet 

詩的な哲学的箴言が断章の形で書かれている。

ニーチェツァラトゥストラを思わせる孤独な魂が山を下りて、街の人々に乞われるままに説教をする。

ちょっと説教くさいかなと思ってしばらく遠ざかっていたが、久々に読みかえすとやはり心に訴えるものがある。

たとえば話すことについてのこのような一節

You talk when you cease to be at peace with your thoughts;

And when you can no longer dwell in the solitude of your heart you live in your lips, and sound is a diversion and a pastime.

And in much of your talking, thinking is half murdered.

For thought is a bird of space, that in a cage of words may indeed unfold its wings but cannot fly.

 ためしに訳してみると

「思い」となかよくできなくなったとき 話しはじめてしまう

もはや孤独な心のなかに安住できなくなったとき くちびるに生きるようになる 音はたのしみであり気晴らしである

たくさん話すうちに 思いの半分はそこなわれる

というのも思いは空を翔ける鳥なのだから ことばという籠に入れるならば翼をひろげても飛ぶことはできないのだから

 話せば話すほど思っていたことと違う方向に行ってしまう。こんなことならはじめから何も話さなければよかったと思う。だれとも口をきかない一日がどれほど至福か。

レバノンという、キリスト教イスラム教とユダヤ教の交差する文化と言語と宗教の坩堝のような国に生を享けて、英語・フランス語・アラビア語を使って思考するジブラーンの思想は必然的に折衷的になったといえるだろうか。解説によれば彼の思想はマロン派のキリスト教スーフィズムつまりイスラム神秘主義の両方の特徴をもつという。正統的な宗派からは嫌われて、シリアのキリスト教会からは破門されている。ほんとうに宗教的な人間はどの宗教の枠にもはまらなくなるものなのかもしれない。

レバノンといえばカルロス・ゴーン。彼も多言語の人であった。

預言者』の文体は擬古的な荘重なもので、解説によると彼は聖書の欽定訳 Authorized Version の文体に学んだとのことだ。

「ワーニャ伯父さん!」を見て

近くの公民館でチェーホフの劇「ワーニャ伯父さん!」を見てきました。

YOU-PROJECT というグループによる上演、演出は松浦友という方です。

タイトルにある「!」は原文のままです。原作を大幅にアレンジしたものという意味をこめて、このマークなのでしょう。

意表を突かれたのは、若く美しい後妻エレーナを声だけの出演にしたこと。
退屈な田舎に突然現れたエレーナのことが、ワーニャ伯父さんも医師アーストロフも気になって仕方がなくて、主人の目を盗んで花を贈ったり抱きついたりするのですが、それが舞台隅に置かれたマネキン人形に対してだというのが、不自然で異様で滑稽な感じです。
演出の意図はわかるような気がします。だれかに惚れているときは、実体ではなくてまぼろしに惚れているにすぎないのだということ。だれかに尽くしたつもりでも、すべてはまぼろしだということ。
それに耐えられずに自殺するか、それを忘れるために仕事に没頭するか。
ラストシーンでワーニャ伯父さんとソーニャがひたすら金勘定をするのは、絶望を忘れるためなのかもしれない。逃避としての仕事。

原作ではワーニャ伯父さんは47歳という設定。これは当時の平均寿命を考えればかなりの老齢なのでしょう。「仮に60歳まで生きるとすれば...長すぎる!」などというセリフもありました。現代日本に置きかえれば70歳過ぎといったところか。何かを新しく始めるにはもう遅すぎるのではないか、もうやり直しがきかないのではないかと感じるかもしれない年齢。ワーニャの悔恨もその年齢と大いにかかわりがある。

この日のワーニャ役は、そういう目で見るとずいぶん若々しかったのが、ちょっと違和感をもったところでした。セレブリャーコフ教授も、リューマチだの痛風だのぶつぶつ言っている割には若い印象。

舞台装置はこんなふうでした

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写真ではわかりにくいですが中央にはちいさな砂場があり、スコップやおもちゃがおいてある。舞台後方には時計、その右にはブランコ。

これらの装置にどんな意味があるのだろう。ときどきだれかが砂を手に取って、さらさらとこぼしたりしていました。ラストシーンではソーニャが歌を歌いながらブランコに乗っていました。

特に深い意味はないのかもしれない。もしかしたら、古き良き子供時代の記憶、決してやり直すことのできない過去の記憶を象徴しているのかもしれない。

舞台が終わって外に出ると、いつの間にか日が長くなった早春の夕暮れでした。

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彩瀬まる『森があふれる』を読んで

彩瀬まる『森があふれる』を読みながら思い出したのは川端康成の小説『美しさと哀しみと』でした。

中年の作家が十代の少女に恋をして、妊娠させて堕胎させて見捨ててその人生を狂わせ、その体験を小説に書き、その浄書を妻にさせる。少女も妻も、作家に反抗してあたりまえなのに黙って服従する。復讐は思いがけない人物によって思いがけない形でなされるわけですが。

彩瀬の小説では、設定は川端と似ているのに展開が全然違う。作家埜渡徹也(のわたりてつや)が妻琉生(るい)との体験を小説に書き、さらに浮気までしたことに対して、琉生は怒り、反抗するのですが、それはことばでもなく暴力でもなく、森を茂らせることによってでした。琉生の体から発芽して、やがて部屋いっぱいに繁茂してゆくさまはシュールで夢幻的で、それでいてどこか悲しい。

作家である男はつねにことばで支配してきて、何か言おうとしても、結局君の言いたいことはこういうことでしょと先回りして、ちょっとちがうんだけれどうなずくしかなくて、そんなふうにことばでやりあっても太刀打ちできない。

埜渡と琉生のほかにも何組かの男女が描かれるけれど、男はいつもことばで優位に立ち、女の言い分を聞かずに一方的に話して女を支配する。レベッカ・ソルニット Rebecca Solnit に『説明する男』Men Explain Things to Me という著作がありますが、ことばは男性が女性をねじふせる武器として働く。たとえばテレビ番組でも男性の司会が九割以上しゃべって、横にいるアシスタントの女性が残りの一割で相槌をうって男性を盛り立てるというのはあまりにもありふれた風景です。

ギリシャソクラテス以来、あるいは古代中国の蘇秦張儀以来、男たちはことばで弁論を戦わせて勝ち負けを競ってきた。さわやかな弁舌と説得的な論理で相手を論破した方が勝ちだった。そして女たちはつねに、その戦いの蚊帳の外に置かれてきた。というより女は、ことばで勝ち負けを争うなんてばからしいと思っていた。

琉生はことばではなく、森をあふれさせることで仕返しした。ことばであらそってもむなしくなるだけだから、ことばの入ってこられない世界をつくってしまおう。韓国の作家ハン・ガンの作品『菜食主義者』で、周囲の人間の暴力にたえかねた女主人公が、肉食を断ち、寡黙になり、しだいに植物に近づいてゆく話も思い出しました。

整然と区画化された街路樹ではなく、あたりいちめんに植物を繁茂させようという、1990年代にアメリカで始まったアナーキーアヴァンギャルドな「アヴァン・ガーデニング」avant gardening の試みをも思い出させます。物語の後半で、森が家からあふれて隣の敷地に、さらに向こうの通りに、どんどんはびこるようすが、不気味なのに美しい。植物は、男性優位の秩序への異議申し立てになりうるのかもしれない。

最後には物語論になります。世の中にあふれている小説には性差別を容認する表現があふれていて、男が女を殴ったり、だめな男を女がやさしく許したりという物語に満ちている。それらを焚書にするのは表現の自由の侵害だとしても、どうしてそのような物語ばかりなのだろうか、と問うことは許される。それらがすくいとっている領域は世界のごくわずかにすぎないのではないか。もっと女性がのびのびしている物語があってもいいのではないか。

読みおわってから、それでは私自身はどうなのかしらと問うてみました。私はもともと口が立つ方でなくて、言い争うのも好きでなく、議論しても言い負かされてばかりだし、というよりはっきりした自分の意見がなくて、反論されると、ああそれもそうだね、とあっさり兜を脱いでしまうことも多い。そういう点で、この本に出てくるどの男性とも違う。もしかして私は男性ではないのかもしれないな、と思いながら読んでいました。

シュトラウスの家庭交響曲について

私個人のリヒャルト・シュトラウスのベストテンでは長年にわたってつねに上位の曲のひとつが「家庭交響曲」Sinfonia Domestica です。

ツァラトゥストラ英雄の生涯は、なんだか聞き飽きたなと思ってしまうのに、この曲はけっしてそんなことがない。

巨大な編成のオーケストラの名人芸のかぎりをつくした分厚いテクスチャーから、ときどき彼ならではの耽美的な「歌」が聴こえてくる。

演奏がむずかしいらしく(じっさいむずかしそうにきこえる)オーボエダモーレという変わった楽器を使っているせいもあるのか、演奏の機会があまりない。つい最近飯森範親さんと東京交響楽団がとりあげたらしいけれど、当方関西在住なもので。

ところでオーボエダモーレとコールアングレはどう違うのかしら。低い音域のオーボエで音色も似ています。オーボエ・ダカッチャというのもありますよね。どなたかご存知の方教えてください。

YouTubeで見事な演奏を見つけたのであげておきますね。


Richard Strauss: Sinfonia Domestica Op.53(家庭交響曲) - 早稲田大学交響楽団

早稲田大学のオケは大昔に岩城宏之の指揮で「トゥーランガリラ」を聴いて圧倒されたことがあり、若さ溢れるだけでなく技術的に高度なことは知っていたけれど、ここでの演奏も、ライブの高揚感もあいまって素晴らしいです。トランペットがとちるくらいの小さな傷など何ほどのこともない。どんなプロのオーケストラにも引けを取らない。ポニーテールのティンパニの人がかっこよすぎ。

ワーグナーの楽劇などと同じく、夫と妻と子にそれぞれ主題が与えられ、副次的な主題もたくさんあり、それらが組み合わされたり変形されたりします。私自身、すべての主題を把握し切れていなくて、聴くたびに、あ、ここでこの主題が聴こえてきた、と発見があるので、何度聞いても飽きない。

通して演奏される40分ほどの曲ですが、(1)提示部 (2)スケルツォ (3)緩徐楽章 (4)フィナーレという古典的な4楽章形式になっているともいえます。

主要な3つの主題を挙げてみましょう。

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夫の主題

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妻の主題

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子の主題

男性的な第1主題、女性的な第2主題、副次的な第3主題という、古典的なソナタ形式で、登場人物を描き分けているともいえますね。

夫の主題は低弦と低い管楽器で、のっしのっしと歩くように、妻の主題は高音の弦と高音の管楽器で高いところから舞い降りるように(シュトラウスの妻はたしかソプラノ歌手なのでした)。旋律線も夫の方が「上がって下がる」妻の方が「下がって上がる」対照的に描いています。緩徐楽章が最高潮に達するところでは夫の主題と妻の主題が最強音で同時に響き、それは夫婦のむつまじさの最高潮でもあるでしょう。

子どもの主題はオーボエダモーレのソロでひそやかに歌われますが、このシンプルな音型が、たとえばスケルツォでは3拍子のぴょんぴょん跳ね回るような主題に変形され、フィナーレでは元気よく走り回るようなフーガの主題に変身する、その変化がおもしろくて聞き飽きない。

そのフィナーレが聴きもので、この子どもの主題の変形と、妻の主題の後半部の変形のふたつの主題に基づいた二重フーガによって、朝の作曲家一家のドタバタを陽気に描いていますが、その対位法の複雑精妙な綾のきめの細かさ、各楽器の名人芸、ついつい聴き入ってしまいます。

ニ短調の子の主題が、同主調ニ長調に転じて、堂々としたクライマックスを築いて終わり、かと思いきやまだまだ終わらず、いつの間にかヘ長調、つまり父の調に転調して、最後は父の主題で締めくくる。まだまだ主役の座は渡さないぞ、と言っているかのようです。

英雄の生涯」ではナルシスティックな自己陶酔だった作曲家の自画像が、その数年後に作曲したこの交響曲では、妻や子にじゃまされたりかきまわされることで相対化される、ペーソスとおかしみを交えた喜劇的な自画像に変容して、より深みを増しているような気がします。

さらにその数年後の歌劇「ナクソス島のアリアドネ」で、シュトラウスの自画像ともいえる「作曲家」が、劇場支配人に無理難題をふっかけられたり、振付師や歌手にさんざん翻弄されてパニック寸前になりながらも、自らの芸術を気高く貫こうとするのをも思い出します。

そんなわけで、一度でいいから家庭交響曲を生で聴きたいと思うのです。関西のオーケストラの方々、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

ブラームスのヘンデル変奏曲

ブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」Op.24 は好きな曲の一つ。

パガニーニ変奏曲には手も足も出ないけれどこれは何とか弾けるかしらと思って、無謀にも全曲さらったこともありました。

細かいレースに縁どられたような繊細なヘンデルの主題が魅力的です。

調は変ロ長調ブラームスのお好みの調だったのでしょうか。第二ピアノ協奏曲と同じ調。Bフラット→C→D と動くはじめの主題の旋律の線まで似ています。

ピアノの曲なのに、弾いているとオーケストラのいろんな楽器が聞こえるような気がするのです。たとえば

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右手の、短い休符を挟みながらぴろぴろとさえずるようなメロディーはフルート、左手の和音はホルンのような音がします。

ちょっとちがうけれど第四交響曲のフィナーレの途中の、ホルンのオブリガートでフルートのソロがかそけく歌うところを思い出します。

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ところで エドマンド・ラッブラ Edmund Rubbra という作曲家がこの変奏曲をオーケストラ用に編曲しているのを先日はじめて聞いたのですが、ここのところをほんとうにフルートとホルンに吹かせていて驚き、同じことを考えている人がいたんだなとうれしくなりました。

 

 なかなかよくできた編曲で、編曲者のブラームスへの敬愛の念が伝わってきます。フーガの最後の盛り上がりではティンパニの持続音のクレッシェンドの上に金管が華やかに鳴り響いて聴きごたえがありました。

ブラームス室内楽やピアノの曲でも、いつもオーケストラの楽器が頭の中で鳴っていたのかもしれませんね。