Dolcissima Mia Vita

A Thing of Beauty is a Joy Forever

好きと嫌いの外国語

フェイスブックのいいね!は英語では Like フランス語では J'aime ですが、ほかの言葉ではどうなのか少し調べてみました。

スペイン語は Me gusta

イタリア語では Mi piace

ドイツ語では Mir gefällt

現代ギリシャ語では Μου αρέσει

ロシア語では нравится

何かが好きというとき、英語やフランス語では「好きな主体」を明示して「私が好む」という言い方をするのですが、そうでない言葉も多い。

上に挙げた例はすべて私が主語にならない。

たとえばスペイン語の gusta は、何かが誰かの「気に入る」という意味で、私の気に入るの「私」が me になる。

たとえば 

Me gusta comprar ropa. (= I like buying clothes)

「服を買うこと」comprar ropa が主語で、それが私の気に入る、という表現。

その他の例に挙げた言語の動詞もみんな同じ構文です。

Mi piace la musica. (= I like music)

Μου αρέσει το πουκάμισο. (= I like the shirt)

Das Hotel gefällt mir. (= I like the hotel)

じつは英語やフランス語にもこの gusta や piace に相当する動詞があって、それはたぶん piace と同じ語源の please (英)plaire (仏)です。

Ce livre m'a beaucoup plu. (= I liked this book very much)

plu は plaire の過去分詞。その本が主語になり、その本が私の気に入ったということ。英語の please はもっぱら be pleased という受動態のことが多いみたいですね。

命令文の Please sit down. も「もしそれがあなたの気に入れば」→「どうぞ」。

フランス語の s'il vous plaît も同様です。

このような定型文ではもはやもともとの意味は意識されず、ふつうに何かが好きというときは I like ~ J'aime~ になるようです。

 

もしかして英語やフランス語の方が少数派なのでしょうか。世界中の言葉を知っているわけではないのでよくわからないのですが。

これをお読みくださっている方で、これ以外の言語ではこんなふうに言うよ、とご存知の方がもしもおられたら教えていただければ嬉しいです。

考えてみれば日本語もそうですよね。「うどんが好きなんです」あるいは「好きです」だけでも文としてなりたつ。だれが好きの主体なのか、言う必要がない。

だれかをあるいはなにかを好きになるというのは、主体的な主語のある行為というよりは、いつの間にか気が付いたら好きになっていた、自分の意志とはかかわりなく、巻き込まれるようにして好きになっていた、恋に落ちるという表現にうかがわれるように、なにかに落ちるように、雷に打たれるように、だれかをなにかを好きになる、ということが多いのではないでしょうか。

そう考えるとなおさら、I like~ や J'aime のような言い方が不自然に思われてくるのです。

金谷武洋の『日本語と西欧語』によれば、英語とフランス語は早くから動詞の人称変化を失った。英語の現在形は三人称単数以外同形というのは皆さんよくご存じと思います。フランス語も、たとえば「話す」parler の現在形は

je parle, tu parles, il/elle parle, nou parlons, vous parlez, ils/elles parlent

と変化するものの、nous と vous 以外は全く同じ発音で、聞いただけでは区別できない。

イタリア語やスペイン語などほかの多くの言語はすべての人称で違う形になるので、動詞を見ただけで主語がわかる。だからわざわざ主語を明示する必要がなく、しばしば略される。主語の地位はあまり高くない。

英仏語は語形変化がない分、語順によって明確に主語・述語をはっきりさせる必要があった、それゆえ主語の地位が高くなり、主語は省略不可能なものとなった。

 

日本語と西欧語 主語の由来を探る (講談社学術文庫)

日本語と西欧語 主語の由来を探る (講談社学術文庫)

 

 

今のこの国の、外国語といえば英語しかないかのような英語中心主義、大学で第二外国語が必須でなくなりつつある状況、英語さえできれば世界で偉くなれるかのような錯覚、まるでアメリカさんにごまをするような英語崇拝にはつくづく辟易しているのですが、もし英語しか知らずに一生をすごすならば、I like~ のような思考様式をあたりまえとして、何かの行為には必ず明確な主語・主体があって、その主体的な意志ですべての行為が行われるという世界観を当然のこととして生きることになるのでしょうが、それでもいいのでしょうか。この世にはもっと多様なもののみかたがあるのではないでしょうか。

人はつねに主体的に意志的に行動するわけではない。いつのまにか、なりゆきとして、気がついたら好きになっていた。いわば中動態的ななりゆきで、世界は動いているのではないでしょうか。

さらに言えば、意志とかかわりなく何かあるいはだれかを好きになるとすれば、その好きな気持ちには責任がないといえるでしょうか。

たとえば小児性愛者が子どもを好きになってしまうのも、彼自身には責任がないといえるでしょうか。

無辜のこどものの人生を台無しにする性愛を厳しく断罪すべきなのは言うまでもありません。しかし、だれに責任を負わせたらよいのか。その犯人もまた、意のままにならない自分の気持ちをどう処理していいかわからないのではないか。

責任を追及してだれかに有罪宣告をすべきではない。しかし罪は憎むべきである。こういう場合はどうすればいいのでしょうか。

 

 

パトス四重奏団を聴きに

きのうは主夫のお休みをもらって、近所の公民館に音楽会に行ってきました。

 

パトス四重奏団。ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・ピアノのグループです。

 固定メンバーでのピアノ四重奏団はめずらしいですね。

 1月に結成されてこの日が初舞台とのことでしたが、そんな風にはとても思えない、息の合ったアンサンブルでした。

 小さな会場で、息づかいが聞こえるほどの近くできかせていただきました。

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プログラムは

 

マーラー ピアノ四重奏曲(断章)イ短調

フォーレ ピアノ四重奏曲第1番ハ短調作品15

ブラームス ピアノ四重奏曲第1番ト短調作品25

 

それぞれ作曲家10代、30代、20代の作品。

 

マーラーの曲は作曲家の名前を伏せたら誰かわからないほど、後年のマーラー節は聴かれず、シューマンブラームスのような響きでした。ブルックナーのもとで修業していた15歳のころの作曲だそうです。

短6度の跳躍のある a-f-e の憂悶するような動機が何度も繰り返される。

ヴァイオリンの上敷領藍子さんによるとこの曲には決定的なダイナミクスがひとつも書かれていなくて、淡白な譜面なのだそうです。

交響曲であれほど細かい強弱や表情の指示を書きこんだ人とは思えないですね。

 

フォーレの曲は、昔から知っているはずなのに、間近で聴くと初めて聴くような新鮮な印象を受けました。

ささやくようなかすかな弦のピチカートにつづいてまるで小さな妖精のようにかろやかに舞い踊るピアノの旋律ではじまる第2楽章がとりわけすてきでした。

 

ひとやすみのあとは愛してやまないブラームスの四重奏曲。

じつはこの曲、シェーンベルクによるオーケストラ編曲版で初めて知って恋に落ちたのでした。後から知った原曲も、聴いているとラッパやシンバルの音が聞こえてくるような錯覚にとらわれます。

自らチェロを弾いたというシェーンベルクが好んだだけあって、チェロにおいしい旋律がいっぱい。

ピアノの伴奏に乗ってチェロが歌う第1楽章の第2主題、f-g-g♯-a の上昇音階で始まる旋律は聴くたびに切なくなる世界一好きなメロディで、チェロが弾けたらなあと思わずにはいられません。

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フィナーレのハンガリー風のロンドは緩急自在なテンポのなかで熱く盛り上がり、終演後は盛んに拍手が送られていました。

このロンド、あちこちに不協和音がちりばめられて、シェーンベルクの編曲版ではそこがとくに強調されていたりもします。1860年ごろにしては新奇にひびいたにちがいないこの和音は、もしかしたらじっさいのハンガリー民族音楽の、ドレミファの音階に収まらない微妙な音程をブラームスの耳が聞き分けたのかもしれない。バルトークよりも何十年も前に。

 

すっかり演奏に魅せられて、もっとこれからもこの演奏家たちを聴いてみたいなあ、次はシューマンの四重奏曲などがいいなあ、と思っていたら、なんとアンコールはそのシューマンの第3楽章。ブラームスの熱狂のあと、嫋嫋たるロマンティックな調べのうちに幕を閉じました。

 

終って外に出ると夕立も上がり、虫の声の聞こえる夜の中を、今の演奏を思い出しながら、30分ほどかけてあるいて家に帰りました。

 

小さき額

小さき額 十二首

 

病める子にたべさせんとてやはらかくやはらかくうどんうすあじに煮る

あづけたる園の電話に馳せゆけば小さき額に熱さましはる

いつになくことばすくなの病める子をうしろにのせて重き自転車

病める子のつぶらまなこに甘ゆれば添ひ寝せんとてエプロンはづす

頬あかくそめて無口になれる子のからだ寄せきぬ診察待つ間

読みをへぬうちにねむりにおちにけり病める子に本読みきかすれば

をさなごはなに夢むらむまつげ濃きねむりのなかのほのかなる笑み

ニンナナンナにをさなご抱けばやはらかき髪のほのかににほひけるかも

こゑあげてをさなごわらふくちのなか繊月のごと歯の生えそむる

泣く理由わからぬままに泣きやまぬをさなごだきてくらがりにゐき

アゴムにむすびもあへぬをさなごのほそくかそけき髪のかなしも

をさなごの歩幅にあはせあゆみつつともにひろへり黄の葉赤の葉

ある日スザンナは

オルランド・ディ・ラッソ Orlando di Lasso「ある日スザンナは」Susanne un jour を聴いていました

 

歌詞はギヨーム・ゲルー Guillaume Guéroult という人によるもので

Susanne un jour d'amour solicitée
par deux viellardz, convoitans sa beauté,
fut en son coeur triste et desconfortée,
voyant l'effort fait à sa chasteté.
Elle leur dict, Si par desloyauté
de ce corps mien vous avez jouissance,
c'est fait de moy. Si je fay resistance,
vous me ferez mourir en deshonneur.
Mais j'aime mieux périr en innocence,
que d'offenser par peché le Seigneur.

試みに訳してみますと

ある日スザンナは、言い寄られた

美人に惚れたふたりの年寄りに。

心乱れて悲しくて、

操を守ろうとして

年寄りにこう言った。もし操をやぶって

わたしの体を楽しむならば

私はもう終わり。抗えば、

不名誉のうちに死なせようとするでしょう。

けれど私は潔白のまま死ぬ方を選ぶ。

主に対して罪を犯すくらいなら。

 

典拠は旧約聖書のなかのダニエル書13章の補遺にある話で、水浴するスザンナを盗み見たふたりの長老が情交をせまり、スザンナが拒絶すると、男と姦淫していたというあらぬ罪で裁判所に訴える。死刑判決が下されたところに預言者ダニエルが現れてスザンナの潔白を主張し、ふたりの長老を別々に聴取したところ、供述に食い違いがあったために無実が証明される、という話です。

歌詞を書いたギヨーム・ゲルーはミシェル・セルヴェ Michel Servet のカルヴァン批判の書『キリスト教復位』Christianismi restitutio の出版にかかわったために投獄されたこともある出版者・翻訳家にして詩人。同時代のラブレーエラスムスなどと同様、古典への造詣が深く、カトリックプロテスタントのせめぎあう17世紀のフランスの宗教的不寛容を生き抜いた。

この「ある日スザンナは」の詩は大評判となったらしく、ラッソのほかにも多くの作曲家(クロード・ル・ジュヌ、フィリップ・デ・モンテ、チプリアーノ・デ・ローレなど)が曲をつけています。

長老からのセクハラに屈するよりは死を選ぶというスザンナの言葉を、宗教的不寛容に屈せず信念を守り抜くこの時代の精神に重ねて読む読み方は近代的すぎるでしょうか。

同じ時期に絵画でもスザンナの主題が流行したのでした。

これはベルナルディーノ・ルイーニ (Bernardino Luini, 1480年/1482年頃 - 1532年)の作品

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もっとも有名なのはアルテミジア・ジェンティレスキ Artemisia Lomi Gentileschi 1593年 - 1652年) の作品でしょう。

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左側が現存する作品、右側はこれにエックス線を照射して下書きを示したもの。苦悶の表情が生々しく、左手にはナイフが握られている。

ルイーニと比べると、同じ題材を扱ってもここまで違うのかと驚かされます。

彼女が画家の修行中に教師である男からレイプされた経験にもとづいて描かれたとのこと。そのような経験がなければここまでの迫真性はありえなかったかもしれない。

好色オヤジはこの時代からいたのですね。ダニエル書のこの挿話を、正典として認めない教派もあるそうですが、男性中心の教会にとっては居心地の悪いお話であることは確かです。カトリックの司祭による性的虐待のニュースはおそらく氷山の一角だと思いますが、男たちはそろそろ偽善者であることをやめなければならないでしょうね。

そういえば、関係ないかもしれないけれど、モーツァルトフィガロの結婚で好色オジサンの伯爵から言い寄られる女性もスザンナでした。

あかねいろの空

あれから34年ですね

 

墜落のときにあはせてそらをみるきみの最期に見しそらのいろ

御巣鷹忌墜ちし時刻にみるそらのあかね色てふかなしみのいろ

かぞふればみそとせあまりよとせ経ぬあの夏の日の墜落の惨

御巣鷹にきみみまかりしその日より夏の夜ばかりうきものはなし

御巣鷹に逝きし友のちかづけばおもかげいまだわかかりしまま

ことのはのなべてうつろにひびきけり墜落事故の追悼ミサに

搭乗者名簿にきみのなまへみきいろもかたちもおともなかりき

帰省中逢ふ約束をして切りぬそれがさいごの電話としらず

ほほゑみをたたへしきみが遺影までのながきながき葬礼の列

信濃路のはてにしづもる野尻湖を漕ぎ廻みしきみいまは世になく

法師蟬きれぎれになく昼寝覚め墜死の友にあふゆめをみし

謦咳のいまだのこれる耳の奥きみのなきあといくとせふれど

 

 

 

 

 

カミュ『異邦人』再読

カミュ『異邦人』再読。再読のたびに発見のある小説である。

窪田啓作の訳に誤りがあるのでまず指摘しておきたい。
物語の終わり近く、ムルソーと司祭の会話

そのとき、私のほうを振り向きながら、不意に彼は大声で、あふれるようにしゃべりたてた。「いいや、私はあなたが信じられない。あなただってもう一つの生活を望むことがあったに違いない」もちろんだ。しかし、金持ちになったり、早く泳いだり、形のよい口許になることを望むのは、やはり意味のないことだ、と私は答えた。それは同じ世界に属することなのだ。

「もう一つの生活」は原文では une autre vie 英語で言えば another life。「もう一つの生活」には違いないが、具体的に何のことかわからない。司祭がムルソーに宗教を語る場面ではそれは死後の生、来世以外になく、そう訳すべきだ。

この司祭の問いかけに対するムルソーの答えは日本語として理解不能。原文は

...mais cela n'avait pas plus d'importance que de souhaiter d'être riche, de nager très vite ou d'avoir une bouche mieux faite. C'était du même ordre.


主語の cela は来世を受けており、「来世は que~ 以上に重要なものではない」つまり

「来世なんて、金持ちになることや速く泳ぐことや形のいい口になることと同じくらいの価値しかない」

最後の文の ordre は世界というよりも「次元」とでも言おうか。
宗教的な救済と現世的な快楽は同じ次元のものなのだ、ということ。
地の文だが、これはいわゆる自由間接話法であり、ムルソーの司祭への言葉だ。

どうしてこんなでたらめな翻訳が版を重ねて生き延びているのかわからないが、ここを引用したのは、ムルソーの世界観がわかりやすい形であらわれているからである。

ムルソーの口癖「どちらでもいい」「何の意味もない」フランス語でいえば Cela m'est égal. 
すべてのものを平等に(égal)同じ価値のものとしてムルソーは見る。
来世も、金持ちになることも、速く泳ぐことも同等の価値のもの。宗教の超越的な価値も神の特権的な位置も認めない。
アルジェリアで働くのもパリで働くのも同じ価値だから、上司に転勤をすすめられても「どちらでもいい」。
母の死も、それ以外の人の死も、同じ価値のもの。母の埋葬に際してとくに悲しまない。
マリーから結婚をせがまれても、彼にとってはどちらでもいい。誰かを特権的に愛するということを彼はしない。

ムルソーは非情な人間だろうか。
マリーといい感じになっているのになんだかよそよそしくて、恋愛小説の展開を期待するとあっさり裏切られる。
私のことを愛してるのと聞かれてそんなことはどうでもいいとか愛してないかもしれないとかいうムルソーのことを、マリーはいやにならないのだろうか。
変わった人ね、といって、でも微笑んで、もう一度ムルソーにキスをしている。いやならそんなことはしないだろうな。
恋人に対してつれないのに、ムルソーにはどこか魅力がある。

この小説と並行して書かれた『手帖』Carnets はカミュの創作ノートと日記を兼ねたようなものだが、その中で彼は
「非情 impassibilité」という人がいるようだが言葉がよくない。むしろ「厚情 bienveillance」だろう、と書きつけている。

実際、ムルソーはなかなかいい奴である。
アパートの隣人と上手につきあっている。犬が迷子になったと嘆くサラマノ老人の話し相手になってやるし、
恋人とトラブルになっているレーモンの相談に乗って、手紙の代筆までしている。
上司とも同僚ともそこそこうまくやっているし、マリーにも親切。
だから、裁判で証人として出廷する上記の人々のなかで、だれひとりムルソーを悪く言う人はいない。
誰かを特権的に愛することをしない というのを裏返せば 誰もが特権を持っているということになる。
「誰でもが特権を持っているのだ。特権者しかいないのだ」というのは司祭との対話のなかのムルソーのことばである。
すべての人を、すべてのものを、平等に愛したのがムルソーではないか。

ともすると愛は偏愛にかたむく。
神を信じ、神を愛することは、神に叛逆するものへの敵意と表裏一体である。
特定の誰かを愛して結婚するならば、それ以外の人に排他的になりうる。
ムルソーはすべてをひとしなみに愛していた。

物語の最後のページ、死刑を待つ独房に夜のとばりがおりて、遠くに汽笛を聞きながら母をしみじみとしのぶ場面でムルソーは「世界の優しい無関心に心を開いた」。

優しい無関心 la tendre indifférence というのは撞着語法かに見える。無関心といえば冷淡でやさしくないはずなのに。
しかしムルソーにとっては無関心こそが優しさ。

indifférenceの語源にさかのぼれば「差異 différence」のないこと 区別や差別をしないこと それがほんとうの優しさ。
すべての価値を否定する虚無的な無関心ではなく、すべての価値を肯定する優しい無関心。
ニーチェ的な意味とは別の意味の「距離のパトス」のようなものを、ムルソーに感じる。
人に執着、愛着するのではなく、ある距離を置いて人を愛する。

カミュの戯曲の上演にも参加した女優の Catherine Sellers にあてたカミュの手紙の一節を読んだ。

I know I've done everything to detach you from me, and all my life, when someone has become attached to me, I've done everything to make them back off.

なんとかして君を私から遠ざけようとしてきた。だれかが私に執着しようとすると、どんなことをしてでも遠ざけてきた。

このような態度には東洋的な世界観を感じる。愛執を断ち切り犀の角のように歩めと言った仏陀や、善悪や正邪などすべての差異を否定した荘子に通ずるもの。

「不条理」の思想は仏教の「空」や荘子の「万物斉同」を想起させる。

『手帖』には『荘子』からの引用もある。逍遥游篇の冒頭、鵬という巨大な鳥が空高く羽ばたいてはるか下の世界を見下ろすところ。(訳書では朱子になっているが荘子の誤り。朱子は紀元前4世紀に生きていなかったしこんな文章を書かなかった。窪田とは別の訳者だがいいかげんさに呆れる)

距離をもって世界を見ればすべての差異が消失する。血縁も愛執も法律も、すべてが。

荘子といえば、妻が死んだとき、盆をたたいて歌っていたエピソードが有名だ(至楽篇)。訪ねた人が驚いてなぜ悲しまないのかと問うと、塵から生まれた人が塵に帰るのに何を悲しむことがあろうかと答えている。

母の死に際して、死顔も見ず、涙も流さなかったムルソーを思い出さずにはいられない。

『手帖』には『異邦人』についてこんな覚書もある。

自分を正当化することを欲しない男の物語。人が彼について抱く観念のほうが彼にとってむしろ良い。自分についての真実を知るたった一人の人間として彼は死ぬ。

実際、ムルソーは裁判で自分を正当化するような弁明をほとんどしない。「なぜ殺したのか」「なぜ母の死に泣かなかったのか」...矢継ぎ早の「なぜ」に彼は沈黙を守る。まるでピラトの前のイエスのように。

法律や宗教はムルソーの思想とは正反対の「差異」の思想である。
現世よりも来世に価値を置く。
ばらばらの事実に相互関係と意味を付与して有罪または無罪を宣告する。

そこではムルソーは自分を正当化する必要も意味も見いだせなかった。


「太陽のせいだ」の一言は、ほとんど自暴自棄のことばにみえる。
だが、真実の一端をついていることもたしかだ。
あまりにも太陽がまぶしく、汗が目に入って一時的に盲目になったとき、相手のアラブ人の顔が見えなくなった。顔が見えないから発砲できたともいえる。
アラブ人の顔を見ながらでは引き金を引くことはできなかっただろう。
ムルソー自身はアラブ人に何の憎悪も怨恨もない。レーモンのトラブルにまきこまれただけだし、いきり立つレーモンをなだめて、できるかぎり暴力を避けようとさえしている。
マソンが法廷で証言したように、ムルソーは「誠実な男」(honnête homme) 。喧嘩のときも数の均衡を保ち、武器の使用も対等にし、一対一で正々堂々と戦おうとしている。
にもかかわらず、最終的に彼自身がその均衡を破ってしまったのは皮肉としか言いようがない。

また一方で「太陽のせいだ」というのは皮肉のようにも聞こえる。
西洋の古い迷信では狂気は「月のせい」と考えられていて、lunatic の語源は lunaつまり月にほかならない。
太陽のせいと聞いて笑っているけれど、そういうあなたたちは精神錯乱を月のせいにしてきたではないか。
発砲の理由を「太陽のせい」というのと「母の死を嘆かなかったせい」というのと、どれほどの差異があるというのだろう。

「不条理」というのは堅苦しい日本語だが、対応するフランス語 absurde(形容詞)absurdité(名詞)は「ばかげた」「無意味な」というほどの、日常会話でも使われる語である。
『異邦人』にはたった一か所、この語が使われているところがある。
物語の終わり近く、司祭との会話のなかでムルソーが Du fond de mon avenir, pendant toute cette vie absurde que j'avais menée,...で始まる一文。

「いままでの私のばかげた人生の間中ずっと、未来のはるかかなたから、暗い風が私のほうに吹きつけてきて、私に与えられるすべてのものを等価値にしてしまうのだ」という大意である(ここにもキーワードの「等価値にする」égalisait が出てくる)。
訳者の窪田はこの cette vie absurde を「あの虚妄の生」と訳しているけれども、この人はカミュのことを全然わかっていなかったんだなと思う。虚妄ではない。リアルなのだ。リアルなのに無意味でばかげている。それが不条理なのだ。

不条理というと、たとえば地震や災害で命を奪われたとか、無辜の子どもが虐待されたとか、災難や不幸について言われることが多い。
それが不条理なのはもちろんだ。
だが、幸福や富貴は条理にかなっているのか。
そんな都合の良い話ではないだろう。
きょうがきて、あしたがくる。平凡で平和なこの日常こそが、なんの意味も根拠もない不条理。
しかし、だからといって、ムルソーは悲観的にも虚無的にもならない。
たとえこの世界が不条理であっても、世界は美しい。
アイスクリーム屋のラッパ。海の匂い。夜の星のまたたき。マリーのスカートの柄。
この小説の最後のページはふしぎな静謐と平安に満ちている。

不条理だからこそ、世界は愛すべきものなのだ。

みなべのうみ

みなべのうみ 十二首

 

あめつちにあまねくひかり満つるあさ春告げ鳥の初音はつかに

鳥かげのよぎるつかのま見しひとのおもかげゆゑにながくなげきつ

をとめごは横笛ふけりあづさゆみ春をよろこぶ小鳥のごとく

伐採をまつ森の樹にけさもまた鳥の来鳴きてわかばもえいづ

紀伊のくにのみなべのうみの浜千鳥あとものこさず世をのがればや

夏木立ふみわけいればこずゑなる一羽の鳥のこゑなりやまず

あさなあさな来ては世界のねぢをまく鳥のすがたはみえないままに

星ひとつへればひとつの鳥のこゑふえつつ夏の夜の明けゆく

彼岸よりきたりし霊か鳥一羽さへづりやまぬ秋分のあさ

不発弾遠巻きにしてひと絶えしまひるまのまち鳥なきわたる

須磨のうみほがらほがらにあけゆけばかよふ千鳥の声ぞかなしき

呼び鈴をおしてまつ間の門前に冬の日の照り冬の鳥鳴く