フェイスブックのいいね!は英語では Like フランス語では J'aime ですが、ほかの言葉ではどうなのか少し調べてみました。
スペイン語は Me gusta
イタリア語では Mi piace
ドイツ語では Mir gefällt
現代ギリシャ語では Μου αρέσει
ロシア語では нравится
何かが好きというとき、英語やフランス語では「好きな主体」を明示して「私が好む」という言い方をするのですが、そうでない言葉も多い。
上に挙げた例はすべて私が主語にならない。
たとえばスペイン語の gusta は、何かが誰かの「気に入る」という意味で、私の気に入るの「私」が me になる。
たとえば
Me gusta comprar ropa. (= I like buying clothes)
「服を買うこと」comprar ropa が主語で、それが私の気に入る、という表現。
その他の例に挙げた言語の動詞もみんな同じ構文です。
Mi piace la musica. (= I like music)
Μου αρέσει το πουκάμισο. (= I like the shirt)
Das Hotel gefällt mir. (= I like the hotel)
じつは英語やフランス語にもこの gusta や piace に相当する動詞があって、それはたぶん piace と同じ語源の please (英)plaire (仏)です。
Ce livre m'a beaucoup plu. (= I liked this book very much)
plu は plaire の過去分詞。その本が主語になり、その本が私の気に入ったということ。英語の please はもっぱら be pleased という受動態のことが多いみたいですね。
命令文の Please sit down. も「もしそれがあなたの気に入れば」→「どうぞ」。
フランス語の s'il vous plaît も同様です。
このような定型文ではもはやもともとの意味は意識されず、ふつうに何かが好きというときは I like ~ J'aime~ になるようです。
もしかして英語やフランス語の方が少数派なのでしょうか。世界中の言葉を知っているわけではないのでよくわからないのですが。
これをお読みくださっている方で、これ以外の言語ではこんなふうに言うよ、とご存知の方がもしもおられたら教えていただければ嬉しいです。
考えてみれば日本語もそうですよね。「うどんが好きなんです」あるいは「好きです」だけでも文としてなりたつ。だれが好きの主体なのか、言う必要がない。
だれかをあるいはなにかを好きになるというのは、主体的な主語のある行為というよりは、いつの間にか気が付いたら好きになっていた、自分の意志とはかかわりなく、巻き込まれるようにして好きになっていた、恋に落ちるという表現にうかがわれるように、なにかに落ちるように、雷に打たれるように、だれかをなにかを好きになる、ということが多いのではないでしょうか。
そう考えるとなおさら、I like~ や J'aime のような言い方が不自然に思われてくるのです。
金谷武洋の『日本語と西欧語』によれば、英語とフランス語は早くから動詞の人称変化を失った。英語の現在形は三人称単数以外同形というのは皆さんよくご存じと思います。フランス語も、たとえば「話す」parler の現在形は
je parle, tu parles, il/elle parle, nou parlons, vous parlez, ils/elles parlent
と変化するものの、nous と vous 以外は全く同じ発音で、聞いただけでは区別できない。
イタリア語やスペイン語などほかの多くの言語はすべての人称で違う形になるので、動詞を見ただけで主語がわかる。だからわざわざ主語を明示する必要がなく、しばしば略される。主語の地位はあまり高くない。
英仏語は語形変化がない分、語順によって明確に主語・述語をはっきりさせる必要があった、それゆえ主語の地位が高くなり、主語は省略不可能なものとなった。
今のこの国の、外国語といえば英語しかないかのような英語中心主義、大学で第二外国語が必須でなくなりつつある状況、英語さえできれば世界で偉くなれるかのような錯覚、まるでアメリカさんにごまをするような英語崇拝にはつくづく辟易しているのですが、もし英語しか知らずに一生をすごすならば、I like~ のような思考様式をあたりまえとして、何かの行為には必ず明確な主語・主体があって、その主体的な意志ですべての行為が行われるという世界観を当然のこととして生きることになるのでしょうが、それでもいいのでしょうか。この世にはもっと多様なもののみかたがあるのではないでしょうか。
人はつねに主体的に意志的に行動するわけではない。いつのまにか、なりゆきとして、気がついたら好きになっていた。いわば中動態的ななりゆきで、世界は動いているのではないでしょうか。
さらに言えば、意志とかかわりなく何かあるいはだれかを好きになるとすれば、その好きな気持ちには責任がないといえるでしょうか。
たとえば小児性愛者が子どもを好きになってしまうのも、彼自身には責任がないといえるでしょうか。
無辜のこどものの人生を台無しにする性愛を厳しく断罪すべきなのは言うまでもありません。しかし、だれに責任を負わせたらよいのか。その犯人もまた、意のままにならない自分の気持ちをどう処理していいかわからないのではないか。
責任を追及してだれかに有罪宣告をすべきではない。しかし罪は憎むべきである。こういう場合はどうすればいいのでしょうか。